崔盛旭の『映画で学ぶ、韓国近現代史』

「兄が妹を『殴る』のは日常茶飯事」――韓国映画『はちどり』から繙く「正当化された暴力」と儒教思想の歴史

2020/08/28 19:40
崔盛旭(チェ・ソンウク)

『はちどり』「家族間の暴力」はやがて「国家権力の暴力」につながる

 次は、漢文塾のヨンジ先生のことだ。物語から、彼女はおそらく80年の民主化運動で先頭に立って闘った学生運動家だったのだろうと推測できる。家族の間でまん延していた暴力、その暴力を暴力として認識できない社会に広まる弱者への暴力。これらの理不尽な暴力とヨンジ先生は闘ってきたのだろう。彼女がウニとウニの友達のために歌う歌は「切られた指」という有名なデモ歌だ。歌は、80年代に学生運動の一環として行われた工場活動を想起させる。以前のコラムでも紹介したが、工場活動(工活)とは大学生たちが身分を隠して工場に就職し、同世代の若者たちが受ける労働搾取と闘ったことを示す言葉だ。ヨンジ先生は自らの歌を通して、そういった「過去」をのぞかせている。そしてまた、一口に民主化運動といっても、その中でさらに女性は差別を受けていた。女性労働者たちのストライキを潰すために、男性労働者たちが活躍したという歴史があるほどなのだ。

 そんなヨンジ先生が「立ち退きを拒否して闘う人たちに対する同情はやめたほうがいい」とさりげなくウニに言い放つセリフは、そうした「運動の中にも根強く存在している男性中心主義への警戒」だったのかもしれない。「兄に殴られるままでいるな、闘え」と強く言い聞かせ、一人の人間として自分に向き合い真摯に接してくれるヨンジ先生によって、ウニは少しずつ「新たな世界」へシフトしていく。その新しい世界にウニがどう挑んでいくかは、映画の後半、韓国で実際に起こった事故を通して象徴的に提示される。

 最後は、その事故・ソンス大橋崩落と、そこから見える軍事独裁政権による国家的暴力だ。

 社会の最小単位と言われる家族の中での無意識化した暴力は、その領域を、学校へ、職場へといった具合に広げていき、ついには国家的暴力にまで拡大していくという負の連鎖を引き起こす。当時の韓国メディアが口をそろえて報道したように、日本の植民地時代に造られた橋がいまだ事故一つなく使われているというのに、竣工からせいぜい15年しかたっていないソンス大橋があっけなく崩落してしまった原因は、当時横行していた朴正煕軍事政権時代の「賄賂とリベート」による手抜き工事と、その後のずさんな管理が積み重なったものであった。さらにその翌年には、デパートの崩壊というこれまた信じられない事故が起こり、数百人の命が奪われることを考えると、これらの事故は文民政府に変わったこの時期に、起こるべくして起こったといえる。

 これはまさに、国家が国民の命をないがしろにし、家族間の無意識の暴力が拡大して国家的暴力として現れた極端な例ではないだろうか。これを目の当たりにしても、多くの国民はそれを暴力として認識できないでいた時代、休みが終わったらすべて話してあげると、ウニに手紙で明かしていたヨンジ先生は、もしかするとそうした暴力に対する鈍感さへの警告を、自らの経験をふまえてウニに教えたかったのかもしれない。だが先生は、皮肉にも国家権力の暴力(=大橋の崩落)によって命を落としてしまい、ウニにすべてを語ることはできなくなってしまった。だが私は、これこそがキム・ボラ監督が意図したことではないかと思った。


ユリイカ 詩と批評 第52巻第6号 ▽特集*韓国映画の最前線 イ・チャンドン、ポン・ジュノからキム・ボラまで