金も、仕事も、家族との絆も失ったニセ天皇──マスコミにすら見向きもされなかった熊沢天皇の末路【日本のアウト皇室史】
堀江 この時、熊沢天皇御年66歳。現代の年齢感覚でいえば、80代目前といったところでしょうか。
東京での当初の住まいは池袋の日の出町にあった、支持者のマッサージ師の家でした。仕事は自称天皇、実質的には居候です。ちなみに日の出町の地名は現在すでに地図上からは消え去り、東池袋にある「日の出町商店街」くらいにしか名残は残っていません。ここは都電の停留場があったり、今でも昭和の香り漂うエリアです。
熊沢天皇の最後の敵は、一族でした。どうして熊沢の総本家を熊沢寛道が名乗っているのか? ということが、熊沢一族の中で問題になりはじめたのです。昭和30年頃には、熊沢の総本家に属する人物たちが、本当の熊沢天皇は私だ! という活動を展開するようになりました。内部分裂です。
昭和天皇崩御の頃、平成元年(1989年)3月10日の「週刊朝日」に「昭和の大喪 「熊沢天皇」も新世代 「皇位は望まぬが南朝は正統」 町の製本屋さん“皇太子”の意地」という記事が発表されております。少なくともこの頃までは、熱心に活動なさっていたようです。ここでは熊沢YさんとTさん親子と伏せ字で書かせていただきますが、この熊沢Yさんの編集をうたった「南朝熊沢史料」なる機関紙まで一時期は発行していたようです。ちなみに国会図書館にこの「南朝熊沢史料」は所蔵されていますね。
――本格的じゃないですか。
堀江 そうですね。ヤフオクでも10部まとめて4,000円くらいで売ってたりもしますけどね(笑)。内容は俳優みたいなイケメンフェイスの熊沢Tさんが、南朝ゆかりの人物の子孫に会いにいって親睦を深めた! とか、南朝関係の遺跡を研究した! とかいう感じ。ゲストもそうそう見つからないので、何回も同じ人のところに行ったりしているようです。
しかしその後、熊沢天皇の件に関して、彼らは完全沈黙するようになりました。過去の活動は苦い思い出しか残さなかったようで、「熊沢天皇がらみの件についてはもう触れたくない」と取材拒否を貫いておられるため、やはり具体的なお名前をあげることはここでは避けておきます。
――結局、その方も天皇になるという活動の中で痛い目を見たということですね?
堀江 そうでしょうね。近所から「クマテン」などと茶化したあだ名で呼ばれており、要するに世間から白い目で見られることに疲れてしまったのでしょう。バブルの頃には、他にも次代の熊沢天皇を名乗る親族が詐欺を犯して逮捕もされていますしね。偽天皇にすぎない「熊沢天皇」にそこまで価値が生まれていたのは、驚きではありますが。
さて……熊沢天皇の晩年ですが、昭和32~33年頃には、天皇を退位して法皇になると宣言。そして、とくに出家をしてもいないのに大延法皇を名乗りはじめています。自由ですねぇ。池袋から、今度は練馬区のマッサージ師夫婦の家に転がり込んでいます。
――池袋でも練馬でもマッサージ師に縁があるのは不思議です(笑)。その後の熊沢天皇じゃなかった法皇、どうなってしまったのでしょうか?
堀江 最後の住居は板橋区にあった「法華道場」だったそうです。日蓮宗関連の施設でしょうか。詳細はネットで調べた限り、不明でした。亡くなったのは昭和41年(1966年)6月11日午前3時8分、78歳の死でした。「週刊サンケイ」(産経新聞社/昭和41年7月4日号)などに死亡記事は載りましたが、大きなニュースにはなりませんでした。
――なんだか尻すぼみで、虚しい……。
堀江 最後まで自分こそが本物の天皇であることをブレずに自称し続ける人生でした。が、そのために財産も、仕事も、家族との絆まですべて失って終わってしまったという最期は、もの悲しいですね。
天皇の位を乗っ取ろうとすることは確かに大罪ですが、その罪に見合う以上の罰を一族ともども、世間様から受けてしまったのが熊沢天皇の悲劇だったといえるかもしれません。現代なら天皇ユーチューバーとして「クマテンちゃんねる」とかやっていたら、多少は人気者になれたかもしれませんが……。
――次回からは、“知られざる”女官から妃殿下への洗礼を明かします!