『ザ・ノンフィクション』二人の妻を持つ男の「自由」とは「家族のカタチ ~ふたりのお母さんがいる家~」
今回の「父一人母二人の一家」というテーマは、視聴者が何か言わざるを得ない、ほかの人がどう考えているのか知りたいなど、多くの人をザワつかせ、イライラさせていた。私も予告時点で「イラつき回」が来るぞと気が重く、覚悟の上で視聴したが、同じく『ザ・ノンフィクション』のイラつき回として名高い「漂流家族」シリーズほどのしんどさはなかった。
その違いは、子どもに与えられている環境の安定だろう。「漂流家族」は、“ビッグマミィ”ことタレント・美奈子の離婚や再婚によって、父親が変わったり、生活環境に落ち着きがないが、嘉克らの生活は安定している。ただ、そうであっても、「漂流家族」よりはまだいいという程度で「新しい家族の形、こんな家族があってもいいんじゃない?」とまでは思えなかった。
断っておくが、私は個人に対し、「それまでの社会通念に合わせた生き方」を強いる人はデリカシーがなくて嫌いだ。「正社員になれ」「恋人はいないの」「早く結婚すればいいのに」「子どもを持ったら」などなど、大きなお世話だと思う。なので、個人が社会通念から外れた生き方をするのは、法に触れなければ別にいいんじゃないの? とは思う。「複数人を好きになる」もそうだ。一方で、これは「個人」に対してであり、「親」が社会通念から外れた生き方をするのは、まったく話が別に思える。月並みだが、子どもがかわいそうだと思ってしまう。
美奈子のうちも、嘉克のうちもそうだが、子どもが小さい幼児の頃は、子ども自身楽しそうだったりする。子どもが大勢いるから、毎日が親戚の家に行った夏休みのように遊べて本当に楽しいのだろう。
しかし、美奈子の家も嘉克の家も、子どもが思春期以降、急に大人びて見えて、それがつらい。こちらの勝手な印象だが、子どもたちは思春期を諦めて「大人にさせられる」ようで、親が自由を追求する代償を、子どもの思春期で支払っているように見えるのだ。
親自身が、社会通念に従わないというある種の「子どもっぽさ」を備えているのだから、思春期を迎えた子どもをどうしていいのかわからないところも、あるのかもしれない。子ども時代の最後である思春期に、親に子どもらしく甘えることができず、早飛ばしで大人にさせられる「自由な親の子どもたち」は、どういう心境なのだろう。私は社会通念を逸脱する個人に対しては、特になんとも思わないが、社会通念を逸脱する親については、とてもモヤモヤする。
次週の『ザ・ノンフィクション』は『生まれてくれて ありがとう ~ピュアにダンス 待寺家の17年~』。待寺家の息子・優はダウン症と診断される。取材班が待寺家と出会ったとき優は13歳。彼が30歳になるまでの家族の記録。