光州事件の被害者・加害者の双方の苦しみを救った、韓国映画『26年』の“ファンタジー”性
さて、事件の関係者たちが抱え込んだ痛みは、癒えることのないままトラウマとなって残り続ける。実際に当時、近しい人の無残な死を目の当たりにしたショックから、その後自殺に追い込まれたり、精神的苦痛にさいなまれ続けているという家族らの話は、現在でもニュースなどで度々耳にする。2018年に放送された時事番組『그것이 알고 싶다(それが知りたい)』の新たな検証では、戒厳軍によるレイプの被害者の悲惨な現状や、子どもを含む民間人への無差別乱射などの事実が明かされ、光州事件の惨状を改めて実感させた。
多くの支援団体が、遺族や被害者の心のケアに力を入れているが、中でも「光州トラウマセンター」では、毎年事件の起きた5月になると心理的不安を起こす現象を「5月症候群」と名付け、その治療を専門的に行っているという。そんな光州の人々にとっては、虐殺の元凶でありながら自らの罪を認めようともせず、のうのうと暮らす全が存在している限り、光州事件は常に「現在」であり続けている。彼らが事件に何らかのピリオドを打つためには、ウソでもとっぴなストーリーでも、トラウマの根源を除去するための儀式=「全の死」が必要だったに違いない。
その意味で本作が興味深いのは、“トラウマを治癒するためのファンタジー”の役割を引き受けたことである。精神分析の創始者であるフロイトの言葉を借りれば、トラウマを癒やす装置であるファンタジーは、「現実に反してでも願望を成就させ、再び現実に戻らせる場」であり、ファンタジーという「心理的装置によって、人間は神経症にならずに生きることができる」のだという。そして、想像力を土台にした芸術活動にこそ、現実にはかなわない願いをファンタジーという形でかなえ、現実の苦痛を癒やす機能があるのだと。
それを踏まえると、本作は映画という芸術の装置を通して、現実にはかなわない「全の暗殺」という願望を昇華し(実際の映画の結末がどうであれ)、トラウマを抱えながらも人々が再び人生を生きられるよう、現実に戻してくれるファンタジーと捉えることができる。