音信不通の父が脳梗塞に――ゴミ屋敷暮らしの母を看取った一人息子、「親の身勝手」とこぼす理由
“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)
そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。今回は、7年前の記事で紹介した、母親を介護するシングル一人息子のその後を追った。
あとは死ぬだけの母がうらやましい
7年前にこんな記事(『あとは死ぬだけの母親がうらやましい』独身の一人息子が見た介護)を書いた。
小田誠さん(仮名・55)は、親が離婚してから30年以上、父親からも母親からも距離を置いていた。母親は“人嫌い”で、実の息子と会おうともしなかったのだ。そんな母親の様子がおかしいと、近所の人が市に連絡をして、市の福祉担当者から小田さんに連絡が来た。
ほぼゴミ屋敷で生活していた母親は、すでに認知症が進行していた。そのうえ無年金だったので、小田さんが生活保護の手続きをして、生活保護で入れる施設に入所させることができた。
小田さんには、母親を扶養する力はなかった。アルバイトで食いつないで、ようやく暮らしている状況だったからだ。
施設で暮らしていた母親はその後、誤嚥性肺炎を起こし入院した。小田さんのこともわからなくなり、あとは死を待つだけとなった。何度も「もうだめだろう」と言われては持ち直し、小田さんはそのたびにがっかりしていたと明かす。小田さんは長期入院も覚悟しながら、週1回、母のもとに通い続けた。生活保護を受けているので入院費用はかからないが、洗濯代を浮かすために、洗濯物を持ち帰る必要があったからだ。
「点滴で生かされて、死ぬこともできない。皮肉ですが、“死ぬまでは生かされる”んです。それでも、仕事もないのにまだあと30年は生きなきゃならない自分と比べると、あとは死ぬだけの母がうらやましい」
痛切な言葉をもらしていた小田さん。今はどうしているのだろうか。
介護の相談をしていた女性と結婚
あれから8年が過ぎた。亡くなった母親と同様“人嫌い”で、「僕みたいに愛情の薄い人間が結婚なんかしちゃいけない」と自嘲気味に語っていた小田さんは、なんと結婚していた。
「母のことでたまたま知り合った福祉の相談員に、話を聞いてもらっていたんです。彼女は福祉系の大学を卒業していて福祉については詳しく、私の地元にも福祉関係のセミナー講師として来ていたんです。彼女は専門職だけあって、私のつらさを受け止めてくれて、母を看取ることができたのも彼女のおかげだと感謝していました」
母親を看取った小田さんは、このまま彼女、松永理恵子さん(仮名・50)を失うのが怖かった。“人嫌い”だったはずの小田さんだったが、理恵子さんがなくてはならない存在になっていたという。
小田さんは、理恵子さんにプロポーズした。理恵子さんも、これまで仕事一本でずっと独身だったのだ。ただ、結婚の障壁というほどではなかったが、唯一二人が結婚するのにためらった点は、小田さんは北関東で、理恵子さんは都心にある実家で母親と二人で暮らしていたことだった。