「吉原の遊女と皇室の女官は似てる」? “下世話すぎる”昭和の皇室記事を紐解く!【日本のアウト皇室史】
――宮中の女官になるという選択肢もあるのに、根性はないんですか?(笑)
堀江 そうだね(笑)。でもね、平安時代、例えば紫式部とかの時代の上級女官は「女房」って呼ばれるんだけど、彼女たちには雇い主から現金支給がほぼなかった、とも言われている。
――えー! それってアウトなブラック企業と同じじゃないですか
堀江 高価な衣装とかは、仕えているお姫様が着ていたものなどを頂けて、それを現金化することはできるかもしれない。ただ、平安時代の宮廷のキャリアガールなんて見栄えはいいけど、少なくとも効率的に稼げる職場というわけではなかったと言われています。
後の時代には、パトロンの男性に応援されながら芸能の道を続ける女性たちを、遊女と呼ぶようになりました。「芸能の道=愛人の道」、みたいな生き方になっちゃうんですけどね。そして彼女たちの多くは、女性のリーダーに率いられる形で思い思いのところに住んでいたものの、豊臣秀吉の時代にそれでは「風紀が乱れる」とのことで、一カ所に集められることになった。それが、最初に作られた京都市内の遊郭。そして、この時期以降、男性が遊女たちの統率者になるわけです。まぁね、風紀とかいっても、いろんな女性と一カ所で会える方が男性には楽だからでしょうが(笑)。その後の江戸時代には、遊女たちを男性の都合で一カ所に押し込める傾向が、さらに強くなります。当時の日本で、幕府公認の遊郭は江戸の吉原、京都の島原、大坂の新町という3つだけで、各地に点在していた遊郭は、存在が黙認されているだけのモグリ営業でした。
で、話が戻って、大宅氏が言いたかったのは「御所という閉じられた空間の中で、ミカドからいつの日か愛され、お子様を宿す幸福を待ちわびるだけが女官の生活なら、遊郭に閉じ込められ、客を待つだけの遊女と変わらないんじゃないですか~」ということみたい。そもそも江戸時代、幕府が公認した三大遊郭で働く高級遊女の営業イメージは、“大金さえ払えば”会いに行けるお姫様なんですよ。本物のお姫様には庶民は会えないから(笑)、養殖モノのお姫様=遊女で好奇心を満たす、と。
――CDに握手会の参加券を封入している、“会いに行けるアイドル的”な?
堀江 まさに。女官と遊女が同質とは、さすがに言いすぎでアウトという感じはしますけどね。
――さらに、この記事の中で大宅氏は、吉原の中で使われていた「くるわことば(廓言葉)」と、皇居(御所)で使われている「御所言葉」が本質的に同じ、みたいなことを言っているのですが。
堀江 そうですねぇ……。『実録・天皇記』を取り寄せて読んでみましたが、いかにも戦後すぐの時期に書かれた本っぽいなぁと。皇室を侮辱しただけで犯罪になる「不敬罪」が廃止されたのは47年なので、この本が出版された52年といえば、それこそ「“禁じられた”ミカドの後宮を、がっつり書いてみたいんだー!」という、ジャーナリスト魂が燃えたぎってる印象を受けます。
さて、御所言葉の例を挙げると、われわれ庶民のことは「下方(したかた)」と言いました(笑)。「すましもの」といえば、飲み物じゃなくて「洗濯」。「おつこん」が「酒」。「おかちん」が「お餅」……などなど。確かに、吉原も御所も閉鎖的な社会ゆえに、その構成メンバー同士が小さな世界を作るので、そういう時には、言葉遣いが独特になったりするものです。ただね、安野モヨコの漫画・『さくらん』(講談社)にも出てきたけど、「私」のことを「わっち」というような吉原特有の「廓言葉」は、ナマリがきつい田舎から出てきた女の子が出自を隠すための工夫だったりしたので、御所言葉とは目的が違うかなぁ。一方、御所言葉は「われわれ女官は特別な存在でございます!」という自負だと思うんですよね。
――また、御所内で明治天皇のご側室は、“源氏名”で呼ばれていたと大宅氏は書いています。大正天皇の生母である柳原愛子(やなぎわら・なるこ)さんは「早蕨典侍(さわらびのすけ)」、竹田宮や北白川宮などを生んだ園祥子(その・さちこ)さんは「小菊典侍(こぎくのすけ)」という名前で呼ばれていたとか。このような別称は、“最上位の遊女”を意味する、吉原の「太夫(たゆう)」と同じ意味なのでしょうか。
堀江 これは、明らかに間違いです。そもそも、江戸初期をのぞき、吉原に太夫はいません。正確には最初期の吉原にはいたけど、格式が高すぎたためにお客から敬遠され、絶滅した人種です(笑)。京都の嶋原など伝統を重視する遊郭には太夫の称号は残り、高級遊女の代名詞として“太夫”が用いられました。太夫とは、芸の道を極めた存在に与えられる称号が源流です。現代でもいますよ。太夫と呼ばれるには性別は関係なく、例えば人形浄瑠璃で声を担当している男性の中でも特に“名人”とされる人は「〇〇太夫」と呼ばれますね。
そこからも推察できると思うのですが、高級遊女のお仕事っていうのは、性を売るというより、芸能なんですわ。理想化された恋の幻想をお客に演じ、魅せてあげる“女優業”なんですね。江戸時代、女性は歌舞伎など舞台に立つことを禁じられていたので、お座敷で台本なし、濡れ場ありのお芝居をしてあげるといったイメージ。だから、高級遊女と遊ぶ代金は高かった……と。くわしくは拙著の『三大遊郭 江戸吉原・京都島原・大坂新町』(幻冬舎)をお読みください。
で、御所における「早蕨典侍」などの源氏名が、なぜ吉原遊女の源氏名っぽいかというと、江戸城の大奥のマネをしているからなんです。それこそ「瀧山」など、大奥の女中の名前は、〇代目・瀧山というように受け継がれていくものでした。
――歌舞伎役者の名前みたいですね!
堀江 そう、まさにそういう感じ。それに対し、京都時代の御所では女性の実家の名に、女官としての役職をくっつけて、○○典侍というように呼んでおり、特に源氏名はありません。ところが一説に、300人以上いた女官たちが、京都から江戸城・大奥があった場所にお引っ越ししてくると、御所の人々も江戸の大奥の風習を引きついでしまった……という。皇后じきじきの発案だったともいわれますが、それが明治時代以降の女官にも“源氏名風”の名前が反映されたのでした。源氏名風の名前で呼ばれる高級女官たちの仕事は、天皇・皇后両陛下の生活全般を取り仕切ることです。それで月給は250円ほど。かなりの高給取りでした。
――これって、現代の金額で考えると、どれくらいの価値なんでしょうか?(笑)
堀江 現代日本の貨幣価値で月収100万円くらい。当然ですが、国民の平均給与以上です。明治30年の小学校教員のサラリーが月給8円の時代ですよ? 明治期の御所には30人以上の典侍がいたそうです。この記事「禁じられた女」で語っている小森さんは、そういう上級女官たちの身の回りのお世話などをするべく、上級女官たちから自前で雇われていた「下女(げめ)」だったわけです。小森さんのようなスタッフを雇うためにも高給だったのでしょう。
そして、このような高級女官たちの中に天皇と秘密のロマンスを経験、お子様を授かる方もいた……ということなんですね。
――そんなにもお給料が高かったら、志望する女性も多そうですね。
堀江 第二次世界大戦以前の上級女官、もしくは上級女官を目指す人々は、だいたいが公家や武家など身分の高い家に生まれた、若い独身女性です。御所にあがるには、まずツテがなくてはいけません。「叔母がかつて女官としてお勤めしていた」というような“コネ”ですね。御所からお声掛かりを受けた後、臨時採用、試用期間を経て、本採用といった流れ。ヘタしたら、生涯の全てを御所の奥で過ごすことに。女官とは「“秘密”の『菊のカーテン』の向こう側で全人生を送ってもよい」、そういう覚悟なくして就けない仕事だったということですね……。
――そこらへんもなんだか大奥っぽいですね。現代の天皇家の歴史について書かれた本と比べると、『実録・天皇記』はあきらかにスタンスが違うように感じました。
堀江 「戦後のドサクサにまぎれて出しました感」があって、そこらへんはスリリングで面白い。秋篠宮邸に出かけ、悠仁親王に歴史の出張授業も行っている、昭和史研究家で作家の半藤一利氏いわく、『実録・天皇記』は大宅壮一の本の中でも一番、“面白い”のだそうですよ。大宅氏本人にもそう伝えたそうです(笑)。ただ、大宅氏の分析には、戦前は絶対タブーとされてきた天皇の私生活などのテーマをとにかく面白く読んでもらうため、炎上商法に似た「言い捨て」が目立ちます。歴史的な背景はそこまで考察されていない感じはしましたね。
――次回は、11月30日更新予定。「肉食天皇」こと明治天皇時代の御所内での“禁断の人間関係”についてお伺いします。
堀江宏樹(ほりえ・ひろき)
1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。2019年7月1日、新刊『愛と欲望の世界史』が発売。好評既刊に『本当は怖い世界史 戦慄篇』『本当は怖い日本史』(いずれも三笠書房・王様文庫)など。Twitter/公式ブログ「橙通信」