渡辺直美にあって、ゆりやんレトリィバァに“ないもの”とは? きわどい星条旗柄の水着に思うこと
なぜ、私はゆりやんを「我が強い」と感じたのか。
ゆりやんは『America’s Got Talent』に、角刈りのカツラをかぶり、星条旗柄の水着で出演していた。かなりきわどい角度の水着なので、少し動けば乳首がポロリする可能性は大だ。この水着がよほど気に入っているのだろうか、ゆりやんは日本で開かれたオーディション『アポロアマチュアナイトジャパン2019』にも、同じいでたちで出場。このオーディションは、上位3組に選ばれれば決勝進出、優勝すれば本場アポロシアターで開催される『アマチュアナイト・スーパー・ドッグトップ』に出場することができるというもので、審査は観客の声援とブーイングのみ。声援が多ければ合格であり、ブーイングが多ければ退場となる。
ゆりやんは、そんなオーディションで、ダンスとポールダンスを披露したが、ブーイングを浴びて退場。日本では観客がブーイングするという習慣があまりないので「日本の方にやられると、若干ショックです(笑)」と話していたという。
ネットでは「下品」とか「不快」という意見も見受けられたが、私がまず思うのは、そもそも、ゆりやんは、あのパフォーマンスにおいて、水着を着る必要があるのかということである。
例えば、世界進出するオンナ芸人と言えば、渡辺直美を思い浮かべる人もいるだろう。直美も露出の高い衣装を着てビヨンセの口パクをしたり、扇情的な表情を浮かべることがある。これがバッシングされないのは、それらが“芸”に必要だからではないだろうか。きわどい衣装であっても、グラマラスなビヨンセというアメリカの大スターを連想させるための“道具”という意味で、正当性がある。しかし、ゆりやんの場合、まず何が彼女の芸なのかという骨格がはっきりしないため、あの水着が必要であるかどうかも不明瞭なのだ。
もう一つ、直美にあって、ゆりやんにはないもの。それは主義もしくは個性である。『人生が変わる1分間の深イイ話』(日本テレビ系)に出演した直美の話によると、彼女のデビュー当時、オンナ芸人は「オンナを捨てろ」という考え方が主流で、直美のようにメイクやファッションを楽しんでいると、先輩に「おかしい」と指摘されることもあったそうだ。しかし、直美は「こういう格好が好きだから」という姿勢を貫いた。本業でブレークしたこともあるだろうが、周囲も次第に「それが直美だよね」と個性として認めてくれたという。一方、ゆりやんも、ファッション界に進出するなどしているが、直美のような主義が見えないからか、「渡辺直美の二番煎じ」といった見られ方をしている印象だ。
それに、直美のビヨンセの口パクはよく考えてみると、「ビヨンセっぽい」けれど、「ビヨンセのコピー」ではない。直美が解釈したビヨンセを演じているのであり、これは完全なオリジナルである。対して、ゆりやんはどうだろうかと言うと、自身のインスタグラムで、見事なポールダンスを披露しているが、ポールダンスがうまい人なら本職のダンサーを含めて、ほかにもたくさんいる。これに何かをプラスしないと個性になると私は思わない。直美には外見を含めて「こうありたい」という主義・個性を感じるが、ゆりやんからそういうものを感じないのだ。だからこそ、ゆりやんは、ただの「我の強い人」に見えるのかもしれない。
余談だが、2004年の『第38回スーパーボウル』のハーフタイムショーで、アメリカの超大御所歌手、ジャネット・ジャクソンがジャスティン・ティンバーレイクとのデュエット中に片方の胸をポロリさせる事件があった。アクシデントなのか意図的なものかは不明だが、生中継したテレビ局には視聴者から抗議が殺到し、多額の罰金を支払うことになったそうだ。ゆりやんが今後、個性や主義を手にして、オーディションに受かり、アメリカで仕事をするようになったとして、ポロリする可能性のある、訴訟リスクの高い人をテレビが使いたいかと言うと、首をかしげてしまう。
日本とは段違いの訴訟社会アメリカ。そこで本気でやっていこうと思うなら「いろいろ気ぃつけてがんばりや~」とゆりやん風にエールを送らせていただく。
仁科友里(にしな・ゆり)
1974年生まれ、フリーライター。2006年、自身のOL体験を元にしたエッセイ『もさ子の女たるもの』(宙出版)でデビュー。現在は、芸能人にまつわるコラムを週刊誌などで執筆中。気になるタレントは小島慶子。著書に『間違いだらけの婚活にサヨナラ!』(主婦と生活社)『確実にモテる 世界一シンプルなホメる技術』(アスペクト)。