「韓国ヘイト」への批判は「表現の自由」を脅かすのか? 憲法学者・志田陽子氏の見解
――「週刊ポスト」(小学館)9月13日号の特集「韓国なんて要らない」が「韓国ヘイトだ」と批判を浴び、同編集部が「誤解を広めかねず、配慮に欠けておりました」と謝罪した一件がありました。「中日新聞」は社説で「回収を検討すべき」と厳しく批判していましたが、これもまた「表現の自由の侵害になり得る」などと指摘されています。この件は、どのように考えますか。
志田 同誌には、「怒りを抑えられない『韓国人という病理』」というタイトルの企画があり、韓国人の10人に1人が「間欠性爆発性障害」であるという韓国の医学レポートが紹介され、韓国社会が分析されていましたが、これは、日本より差別表現に厳しいヨーロッパにおいては、法律に触れるレベルかもしれないな……とは感じました。
ただ、現在日本には、差別表現を規制するような罰則が設けられた法律はなく、メディアの見識に委ねられる形となっています。特に、新聞や雑誌は、戦前に検閲による表現規制を受け、そこに自己検閲(忖度)が重なって、「民主主義を台無しにしてしまった」という反省があるので、現在は上からの表現規制はなく、業界内で、倫理的向上を目指すための“示し合わせ”が行われています。しかし、そこに強制力はありません。なぜ法律で規制されていないのかと言うと、「言論の自由」の土俵で、不快だと思った表現に対して、「嫌だ」と声を上げる「表現の自由」が保障されるという前提があるから。ここで「嫌だ」と思った人が、声を上げないまま泣き寝入りしてしまうと、保障の意味はなくなってしまいます。
――「嫌だ」と声を上げられなくなる状況になるのは怖いですね。
志田 最近、「ポスト」のような出版物だけでなく、テレビ番組のコメンテーターが、韓国へのヘイト発言をすることもありますよね。韓国の「ここがダメ」という点をあげつらい、悪者呼ばわりして盛り上がる――そんな状況にあって、日本在住の韓国出身者の方が「嫌だ」と声を上げられなくなってはいないかと、気になっているところです。
表現の自由においては、誰かにとって「不快」な表現も出てきます。しかしその時、上が規制をかけるのではなく、不快な思いをした人たちが「嫌だ」と声を上げることによって、人々の力で軌道修正していくのが望ましいのです。こうした「自己修復能力」が、今の日本社会にはまだあると思う半面、「失われつつあるのではないか」とも感じ、非常に心配。原則としては、自己修復能力を可能な限り信頼し、罰則は設けるべきではないとは思うのですが、もし差別を受ける当事者が身の危険を感じ、口をつぐんでしまう社会状況になった場合は、罰則を設けた法規制もあり得るのではないかと、私は思っています。
――神奈川県・川崎市議会では「川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例(仮称)」の審議が進められています。この素案には、外国にルーツのある人へのヘイトスピーチを繰り返し、勧告・命令に従わない場合、氏名を公表し、最高50万円の罰金を科すという罰則規定もあります。この件に関しても、「表現の自由を脅かす」といった声が出ています。
志田 在日韓国人の方が多く住んでいる川崎市では、差別表現に関する問題を深刻に捉えていると思います。私は、「外国にルーツのある人が、日本人と平等に発言できない状況に置かれている」といった地域の実情をくみ取って、こうした措置に出る自治体が出てくるのは、あってもいいことだと思い始めています。日本人と外国にルーツのある人双方が、同じ「自由」の土俵に立ち、意見を言い合う、ときに批判し合う状況は、「表現の自由」のもと、問題ありませんが、日本人が外国にルーツのある人を対等な「表現の自由」の土俵に立つことさえ許さない状況は、あってはならない。これでは、もともと「表現の自由」に期待されていた、「さまざまな論が切磋琢磨することによって、社会が成熟していくこと」に反してしまいます。
ヤジ排除問題も、『表現の不自由展・その後』中止問題もそうですが、いま日本全体が「不都合なことは、なかったことにすればいい」といった思考にとらわれているような気がします。例えば、「慰安婦」問題がそうです。さまざまな歴史学者が、「慰安婦」の実際を調査・研究する中、資料に一部足りないところがある、一部に間違った記述があるということが判明した際、「慰安婦」問題を不都合とする人によって、その調査・研究全体が「価値のないもの」「なかったもの」にされてしまう……そんなことが起こっています。「表現の自由」において、学術研究とそれに対する批判は、どちらも大切にされるべきなのですが、気に入らない論を唱える人から発言の資格を奪い、「なかったことにすればいい」で解決させようとしているのは問題です。これは、日本人が克服していくべき問題なのではないでしょうか。
――ヤジ排除問題や『表現の不自由展・その後』中止問題で、「表現の自由」について関心が高まり、「不都合なことは、なかったことにすればいい」という風潮に疑問を抱く人は増えたように思います。
志田 『表現の不自由展・その後』に出品された作品は、もともと社会からの抗議・嫌がらせや忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品です。つまり、昔からずっと、そういったことはあったわけですが、それが「見えないところで言論が排除される」という形で続いてきた。しかし、ネット社会のいま、そうした言論排除の問題が「目に見えるようになってきた」と言えるのではないでしょうか。言論の自由・表現の自由が脅かされていることに気づき、危機感を抱くことが、社会をよい方向に変える第一歩となってほしいと思っています。
志田陽子(しだ・ようこ)
1961年生。2000年、早稲田大学大学院法学研究科博士後期課程を単位取得退学。2000年より武蔵野美術大学造形学部に着任(法学)。早稲田大学法学部・商学部非常勤講師。専攻は憲法。著書に 『文化戦争と憲法理論――アイデンディティの相剋と模索』(法律文化社、2006年)『「表現の自由」の明日へ 一人ひとりのために、共存社会のために』(大月書店、2018年)、編著に『あたらしい表現活動と法』(武蔵野美術大学出版局、2009年)『映画で学ぶ憲法』(法律文化社、2014年)。