選挙演説へのヤジ排除は「なぜ許されない」? 憲法学者・志田陽子氏に聞く「表現の自由」
――まず、ヤジ排除問題に関してお聞きします。率直に、どのような感想を抱きましたか。
志田陽子氏(以下、志田) 「表現の自由」とは、人に不快感を与えようとも、相手の権利侵害にならなければ、言いたいことを表現していいという自由のこと。ただこの件は、人と人との間で生じる不快感や差別表現の話ではなく、民主主義における表現の自由、言論の自由に関する話。「民主主義の前提として、可能な限り表現の自由、言論の自由は保障されるべき」という基本の考え方が、警察官や日本の行政に共有されていないのが問題だと感じました。
柴山元文科相の発言から「ヤジが公職選挙法の演説妨害にあたるのか否か」といった議論もありましたが、それは「程度」の問題。確かに選挙演説を妨害した場合、公職選挙法第225条「選挙の自由妨害罪」にあたる可能性はあるのですが、それは「演説がまったくできなくなるような激しい妨害」の場合なのです。1948年、演説の妨害に関し、最高裁判決が「聴衆がこれを聞き取ることを不可能または困難ならしめるような所為」としたことがあります。例えば、演説現場に、何台もの街宣車を乗り付け、割れた音で音楽を流しながら、怒鳴り声を上げたり、拡声器を使ったりなどすれば、演説を聞き取ることが不可能、または困難な状況となるかもしれませんが、今回のような生の声でヤジを飛ばすのは、それにあたらないのではないでしょうか。
―― 一人、ないしは数人が、特に拡声器やマイクなどを使わずに声を上げたところで、候補者や応援者の演説が聞こえなくなるというのは、考えにくいところです。
志田 そもそも日本の公職選挙法は、一般人と政治家の生のコミュニケーションを取りにくくさせている法律とも言えます。例えば候補者やそのサポーターが、有権者を戸別訪問して、直接、政策の説明をすることは禁止されているのです。そんな中、選挙演説というのは、一般人と政治家が直接コミュニケーションを取れる大変重要な場面です。候補者やその応援者にとって、確かにヤジは気持ちのいいものではないと思いますが、しかし、民主主義においては、賛否両論あるのが当然、たくさんの異論がぶつかり合いながら、有権者の考え方を集約していくことが大事なのです。ヤジを排除するというのは、異論を押さえつけることになり、民主主義においてあってはならない表現抑圧と言えるでしょう。
――参院選においては、選挙演説に集まった反対派の人の意見を聞き、議論するという候補者もいました。
志田 それが理想的ですよね。むしろ、ヤジを排除するのは、民主主義のもと選ばれるべき人にとって、自殺行為なのではないでしょうか。議員の「議」は、議論の「議」です。いろんな人と対話を、時に議論をして、多くの人を納得させて票が集まり、選ばれる――だからこそ得られる、誇りと自信があるように思います。異論を押さえつけ、組織票で当選しても、その人は「本物ではない」ということになります。警察が気を利かせて排除したなら、候補者をスポイルしていることになりますよね。これは、政治の劣化にもつながることだと思います。
政治家の中には、親の代からの地盤を引き継ぎ、有権者との議論をスルーし、人気取りのための発言と握手ばかりに終始する人もいますが、これは本来の民主主義とは言えないのです。大日本帝国憲法から日本国憲法に生まれ変わるとき、世襲制、また終身制が採用される貴族院が廃止され、その都度、民意で議員が選ばれるようになったのですが。もしかすると、選挙事務所や協力者が、そういう空気をつくっている可能性もあるかもしれません。候補者の弱みが出てしまう議論を避け、“イケイケ”のムードで、当選まで持っていきたいという思いもあるように感じます。