『栗本薫と中島梓』レビュー:家庭環境と過剰な想像力による孤独感をBL作品として昇華した、稀代のストーリーテラー
裕福な家庭に長女として生まれ、何不自由なく育ってきた中島だが、彼女の弟は生後間もなく重度の障害を抱えた。中島梓の名前で書かれた私小説『弥勒』によると、主人公(中島)の母は「お姉ちゃんがとこちゃん(弟)の分までおつむをもってっちゃったからね」「本当はともたん(弟)は大秀才だったのよね」と口癖のようにつぶやく。中島は、どうしても弟中心に回らざるを得ない家庭に複雑な思いを抱え、弟への嫉妬自体に罪悪感を覚える。著者や中島の夫は、彼女が両親から十分な愛情を注がれていたとみているものの、当時に、両親と弟の強固な絆からはじき出されたという孤独感が、異様とも呼べるほどの創作意欲に影響を与えたと考察している。
彼女がデビュー前に書きためていたのが、初期の代表作ともなる『真夜中の天使』だった。19歳の美少年が芸能界の大物男性たちに抱かれながら歌手として成り上がり、マネジャーとの暴力的とも呼べる愛を紡ぐ。本作のあとがきの中で、中島(栗本)はこうつづったという。
「ただ私にとってそのとき切実に知りたかったこと――それは、一人の人間が、どうしたら、ほんとうに孤独ではなくなるか、ということでした。(略)かれらはみんな、何とかして他人に、ものすごく、全存在をかけるほど強烈に関心をもってほしかっただけなのです」
『栗本薫と中島梓』の著者は、「中島梓の活動のなかで、<JUNE>という雑誌は非常に重要な位置を占めている」という。創刊初期、注目の新人作家として多忙だったにもかかわらず、中島・栗本名義のほかにも複数の筆名で小説を「JUNE」に寄稿し、新人育成も買って出るほど精力的に活動した。なぜ中島は「JUNE」というジャンルに強く固執したのか。彼女は、投稿小説を講評するコーナー「小説道場」内で、「JUNEにおける男どうしの必然性というのは『この個人でなくてはならない』ことの強調」であると説いている。さらに、JUNE小説は「誰からも理解されないのではないか」「他の人間とひとつになることができないのではないか」といった少女の孤独や不安に応えるものとして存在するジャンルだと解説(『小説道場』第1巻)する。
そして「男性同士の性愛関係に熱狂する女性オタク層」――今では“腐女子”と呼ばれる層については、現代に通じるジェンダー的な感覚の鋭さをもって論じる。
中島は、当時の腐女子層を「現代社会で弱者に立たされた者たちの過剰適応」だと捉えていた。91年当時の人気漫画やアニメにおいて、女性としての評価が「いっそう身も蓋もない美醜や老若、性としての優劣に集約」されるようになったと指摘。男性同士の関係性をメインにする作品は、そんな社会の選別のまなざしから逃れつつ、「人に人を欲させる愛という見知らぬ素材を存分に解剖したりいじりまわしたりすることができる」と分析している(『コミュニケーション不全症候群』ちくま文庫)。
これらの考察は、80~90年代初めに書かれた論であり、社会環境や、ジャンルそのものの成熟段階が全く異なるため、現代では当てはまらない面が多々見られる。しかし、まだ一部にしか知られていなかった「男性同士の関係に熱狂する女性オタク層」を、彼女らの苦しみに寄り添う形で評論の俎上に載せ、外部との橋渡し役になった功績は大きい。
中島は、デビュー前から晩年までJUNE小説を書き続けた。それはもちろん、あふれるように湧き出たアイデアの泉によるものであるだろう。しかし『栗本薫と中島梓』を読むと、創作衝動の代償のようにつきまとう孤独感から生涯目をそらせなかった彼女が、自分と同じような不安を抱える少女への助けになりたいという願いを込めて、JUNE小説を世に送り出し続けていたようにも思える。現代のBLの隆盛、華やかな広がりの底には、中島の、そして幾人もの書き手による救済の意思が、今もひそやかに流れているのかもしれない。そんな思いに至ってしまう一冊だ。
(保田夏子)