[サイジョの本棚]

『彼女が大工になった理由』レビュー:“ニュースサイトの仕事”に疲れた彼女が、“手で作る仕事”から得た学び

2019/06/22 17:00
保田夏子

抽象による疲れを癒やす、物理的成果

 本書の大半は、大工としての日常を活写するエッセイだ。タイルを貼り、階段を解体し、テラスを作り、壁を設置する。その日の気候や現場にいる同業者や雇い主との会話、工具の扱いや作業内容を細かに語り、さらに、その作業でどんなに肉体を消耗したかについて丁寧につづる。それは、大工という職業に興味がない人にとっては、退屈な描写になる――かと思いきや、その描写こそが、このエッセイにほかにはない魅力を与えている。

 自分の力で新たな壁ができあがったことに興奮し、戸棚の出来栄えに誇りを持つニナの様子は生き生きとしていて、体を動かして実体のあるものを生み出したり、触れ合ったりすることの楽しさを雄弁に語っている。「抽象などいっさいない、完全な現実」と彼女が感嘆するように、物理的に疑いようのない仕事の成果が彼女の自信につながり、肉体は疲労していても、帰路に就く彼女の世界は記者時代よりずっと明るく輝いている。

 そしてもうひとつ、本書の大きな魅力は、ニナのボスである女性大工・メアリーの存在だろう。白髪まじりのショートヘアで43歳、歯はガタガタで口数は少なく、車や家は乱雑に散らかっている。ニナよりさらに小柄で高い声で話し、「妖精さんのよう」と描写されたメアリーだが、彼女だけ想像上の存在なのでは、と疑ってしまうほど上司として理想的な存在だ。

 全くの未経験であるニナに対して根気強く接し、自分の持つ知識や経験値を惜しげもなく分け与える。メアリーのアドバイスを聞かなかったせいでニナが失敗しても、ニナのうっかりした行動で親指の爪をはがされても、「大工仕事の大部分は失敗をどう挽回するか考えることだよ」と諭し、冷静にフォローに回る。職人気質でぶっきらぼうではあるが、娘について話す時は柔らかい表情を見せ、パートナー(メアリーは同性愛者で、女性と結婚している)には甘い声で優しく接する。上司として、職人として、ほとんど完璧な振る舞いを見せるメアリーのファンになってしまう読者は多いだろう。

 どんなに失敗しても、知恵を絞ってフォローし、じっくり指導してくれるメアリーの仕事への態度から、次第にニナも忍耐強さを学びとっていく。仕事でも恋愛でも人間関係でも、ひとつのミスで投げ出さず、時間と労力を注ぐことが重要だと悟ったニナは、自身の変化を受け入れ、いままでになかったほど深くわかり合える恋人を得て、さらに感情的なしこりがあった父親との関係も、穏やかに再構築していくことになる。本書は30代女性の、静かでダイナミックな成長物語でもあるのだ。


 エッセイの中には、しばしばアントン・チェーホフ、サミュエル・ベケット、ガブリエル・ガルシア=マルケスといった作家たちの名作や古典からの引用がなされ、彼女の思索を華麗に彩っている。しかし、「世界じゅうの言葉を集めても本棚はできない。人がやるのを観察し、自分でやり、失敗し、何度も挑戦したすえに、やっと完成するのである」という彼女の実感に満ちた素朴な言葉は、本書の中ではそれら文豪の言葉に負けないほど美しく強い。

 抽象的な思索に耽り、バーチャル世界に身を置くことも大事だ。しかし、どちらか一方ではなく、抽象と具象を両輪としてバランスよく走らせた時の充実感は、より人生を豊かにするのかもしれない。ニナは、本書を出版した後、大工業と著述業を両立し、活躍を続けている。インターネットの発達で、人類史上、おそらく最も急激に抽象にまみれている私たちだからこそ、本書の言葉に耳を傾けることは、自身の人生を見直すヒントになるだろう。

(保田夏子)

最終更新:2019/06/22 17:00