母は男に娘を捧げ、娘はその母に似ている——『影のない街』が描く2人の女の性
女として生まれ、ある程度、歳を重ねると「母」という存在に対してジレンマを感じることがある。
筆者の場合、10代の頃は、母の服装や体形に対して恥ずかしい気持ちを抱いたり、20代に入ると、専業主婦である母の生き方に対してもどかしさを感じたりした。まだそれほど年齢を重ねていないにもかかわらず、流行から外れた服装や髪型で満足をしていたり、父の収入だけを頼りに生きている母に対して、「私は彼女のようになりたくない」という反発心を抱いてしまうのだ。母親は、私たち女にとって一番身近な「女」であるから。
今回ご紹介する『影のない街』(文藝春秋『エロスの記憶』所収)は、街の片隅でひっそりと暮らす母と娘を描いた、桜木紫乃氏の短編小説である。
舞台は、とあるちいさな街の喫茶店「ムーンライト」。昼はコーヒーと軽食を出し、夜は酒を出す店で、主人公の絵美は母と2人で働いている。この店の元オーナーと母は5年ほど交際し、その後2人の縁が切れたことを境に絵美が店を切り盛りすることになった。
元オーナーは、ナット・キング・コールの「Fly Me to the Moon」を好んで流していた。絵美の耳には今でもこの曲が残り続けている。母と同じようにすれっからしな絵美は、この曲の歌詞のように、ひとりの男と誠実に愛し合うチャンスには巡り合うことはできない、と。
母がこれまで交際して来た男たちは知っているが、自分の父親の顔は知らない。母が今ターゲットにしているのは、いびつな「五本指」を持つヒロトだ。きちんと両手に5本の指があるのに、両手のどちらも不自然さを感じる。彼は絵美が住む港町の物件を取り仕切っているヤクザである。
ある日、絵美の店に来たヒロトは金色のライターを忘れていってしまった。母は、絵美を使ってヒロトを取り込もうとする。カサブランカの花とコーヒー豆を絵美に持たせて、母は絵美をヒロトの元に向かわせた。
絵美は、母からヒロトへの「献上品」となり、ヒロトの事務所で弄ばれる。コーヒーとカサブランカとタバコ、ヒロトの首筋から香るエゴイストの匂いに導かれ、絵美はヒロトのいびつな五本指によって快楽へと導かれてゆく——。
釧路の寂れた街で繰り広げられる母と娘の物語は、最初から最後まで、「Fly Me to the Moon」が流れているように感じる。
この女を母にして生まれた運命を背負い、数え切れないほどの男と寝てきた「男太り」の母の生き方を肯定している絵美。彼女が選ぶまっすぐなラストシーンは、これまでの絵美の悲しい性を包み込み、強い女を描いている。
静かに、強く心に響く桜木氏の性を、ぜひ読んでいただきたい。
(いしいのりえ)