フィギュア少女の「孤独」に私たちは救われる……『スピン』の描く苦しみ・喜びの福音
思えばフィギュアスケートは本邦の少女マンガにおいても格好のテーマであった。槇村さとる『愛のアランフェス』『白のファルーカ』、おおやちき『雪割草』(いずれも集英社)、川原泉『銀のロマンティック…わはは』(白泉社)、小川彌生『キス&ネバークライ』(講談社)……。その多くにあってフィギュアスケートは、人生そのもののように描かれていた。
本作も紙幅の大半はフィギュアスケートの描写に割かれているが、心に響くのは主人公の葛藤や悲しみを綴るモノローグだ。それはフィギュアスケートというスポーツの特異性に因るところが大きい。「このスポーツは生き方とセットだ。そこに選択の余地はない」のだ。滑ること、踊ることは運命のようなものだと、ある種のスケーターは見る者に思い知らしめる。そして華やかさとは裏腹なその残酷さが、人々をまた惹きつけるのだった。
脆弱な繊細さを抱えた私たちは、あるときは孤独でありたいと思いながら、またあるときはそれを寂しいとも思う、わがままな存在だ。人は1人では生きていけないこともわかっているのだが、他者の無神経や悪意に傷つけられたくはない。消去法として選んだ孤独にとって、恋は福音なのか、猛毒なのか。
本作は明確な答えを提示する類のものではなく、ただ1人の女性の青春時代を描く。私たちはそこにかつての自分自身を見るだろう。たとえ30歳、40歳になっても消化しきれない、あの頃の苦しみや喜びが、ただそこに表現されているというだけで、今の私も、あの頃の私も救われるのだ。確かに私は孤独だった、でも私は孤独ではなかったのだと。
12年間続けてきたフィギュアスケートに別れを告げ、二度とスケートはしないと誓った2年後のある日、主人公はふらりとアイスリンクを訪れる。スケートをするためではない。「立ち去れることを自分に証明する必要があった」のだ。鮮やかなアクセルジャンプを着氷した彼女は、そそくさとリンクを出る。フィギュアスケートのジャンプの中で、アクセルは唯一前を向いて踏み切るジャンプだ。跳ぶたびに彼女はこう願ったという。「ターンして踏み切る一瞬、今度こそうまく行きますようにと全身全霊で祈った」。私たちは今日も祈りながら跳んでいる。
※原文ママ。同性愛者全般を意味する。
小田真琴(おだ・まこと)
女子マンガ研究家。1977年生まれ。男。片思いしていた女子と共通の話題がほしかったから……という不純な理由で少女マンガを読み始めるものの、いつの間にやらどっぷりはまって、ついには仕事にしてしまった。自宅の1室に本棚14架を押しこみ、ほぼマンガ専用の書庫にしている。「FRaU」「SPUR」「ダ・ヴィンチ」「婦人画報」などで主に女子マンガに関して執筆。2017年12月12日OA『マツコの知らない世界』(TBS系)出演。