「父親は早く死んだらいい」ゴミ屋敷で3年間の家庭内別居の末、離婚した女性の壮絶体験
――その後は、どうなりましたか?
半年後となる2年前の6月、人づてで別の弁護士を紹介してもらい、会いに行きました。その弁護士先生、顔を合わせたとき、「どうぞおかけください。話は聞いてます。大変でしたね。私でよかったら、お話を聞かせください」と言ってくださった。それを聞いて、せきを切ったように涙が出てきました。でも泣いて、すごく気持ちが楽になりました。精神安定剤なんかより、ずっと効きます。まさに“神対応”です。
――裁判は、どういうふうに進んでいったんですか?
6月に相談に行って、さっそく7月に離婚調停が始まった。3回やって不調。その後、離婚の件は裁判になりました。親権を争っているわけでもないし、DVでもない。案件として、深刻さはそれほどでもない。だけど、一向に解決しなかった。
――なぜですか?
夫が頑強に解決を阻んだからですよ。夫は親戚の手前、離婚だけは避けたかったみたい。のらりくらりと話をそらしたり、逐一、証拠の提出を要求したり。裁判官が読み間違えたら大声で指摘したりして、裁判が一向に進まないように妨害を繰り返したんです。裁判沙汰になるような、面倒な人身事故の担当を20数年やっているから、裁判所は彼にとっては“自分の家の庭”同然のところなんです。老獪のひとことです。
――結局、まとまったのはいつですか?
同時に進行していた婚姻費用調停は、半年後に先にまとまりました。それで毎月11万円が、私の口座に入ってくるようになりました。そこからは生活が楽になって、貯金ができるようになりました。一方、離婚裁判の方は、ほぼ1年かかりました。結審したのは昨年の9月末のことです。ローンが終わっている2階建ての家は、私と子ども2人のもの。子どもは月5万円の養育費が2人分。ただ上の子は、大学を卒業する今年3月末まで。娘はまだ先なので、そのときまでですね。
――それで、旦那さんはすぐに出ていったんですか?
また、ごねだして振り出しに戻ったら大変です。だから、年末までの努力目標としました。
――彼が家を去っていったのはいつですか?
最後の最後、昨年の大みそかです。私たちは道向かいの両親の家にいて、彼が出ていくのを待ちました。軽トラを借りて、彼1人で作業して引っ越していきました。出ていったのは大みそかの夜9時でした。最後の最後まで、家を使い倒して出ていきましたね。ゴミがぶちまけられてて、家全体が正真正銘のゴミ屋敷になってました。