デヴィ夫人、初作詞曲「貫く愛」の原点? 芸能史に残る「津川雅彦とのスイス逃避行愛」
インドネシアのスカルノ元大統領夫人だったデヴィ・スカルノ夫人(76)が、人生で初めて歌謡曲の“詞”を書いた。これまで、多くの友人・知人の歌手に依頼されたが、全て断ってきたという。かねてから、夫人の趣味である“ラテン”を歌っている歌手に、詞を書きたいと思っていたらしい。
そんなデヴィ夫人が、約10年前に出会ったのが、無名のラテン歌手・川奈ルミ。ルミの歌声に酔ったデヴィ夫人は、彼女の作詞依頼を快く引き受け、「貫く愛」という曲の詞を書き上げた。川奈の公開コーディングにも立ち会ったデヴィ夫人は、この歌の原点について、「愛を貫くことができなかったベッキーのことや、元夫・スカルノの大統領のことを書きました」と言っていたが、古い芸能記者は、詞の内容が、ベッキーでもスカルノでもないことを知っている。
約半世紀も前の話だ。デヴィ夫人が、元大統領夫人になったのは1962年、まだ彼女は19歳だった。大統領に寵愛され、長女も誕生したが、その幸せは長く続かない。65年にスカルノ元大統領が失脚し、デヴィ夫人は籍が入ったまま長女を連れてパリに亡命。インドネシアに帰れない日々が続き、数年後、娘とともに日本へ里帰りすることとなった。
日本には、インドネシアからの利益をむさぼろうと、デヴィ夫人の生活を保障すると名乗り出る後援者がかなりの数いたという。そんな日本で、世界を駆ける激しい愛が生まれてしまう。俳優・津川雅彦(77)との出会いだ。失脚したとはいえ、デヴィ夫人はスカルノ元大統領夫人、一方の津川は独身の人気俳優――それは、一筋縄ではいかない恋だった。
2人の愛が燃え上がるのに、時間はかからなかった。ほどなくして、そのウワサはマスコミに漏れ、大スキャンダルに発展。2人はスポーツ紙、女性週刊誌に追いかけられるようになり、安住の地を求めてスイス・ジュネーブへ。しかし、マスコミも負けじと、大胆な取材に打って出る。当時3誌で350万冊以上の売り上げを誇っていた「女性自身」(光文社)「女性セブン」(小学館)「週刊女性」(主婦と生活社)が、担当者をスイスへ送り込み、デヴィ夫人を張り込ませたのだ。デヴィ夫人の住む家の近くにコンドミニアムを借りるほどの力の入れようで、3誌は毎週のように、2人の「逃げられない激しい恋」を現地報告していたのである。
余談だが、当時テレビでは、『木島則夫モーニングショー』(テレビ朝日系)『小川宏ショー』(フジテレビ系)といったワイドショーが放送されていたものの、まだ始まったばかりだったので、芸能人のスキャンダルには目が届いておらず、この2人のニュースも取り扱っていなかったように思う。あの時代に、現在放送されているようなワイドショーがあったら、どうなっていたのだろうか。想像もできない。
そんな背景もあり、2人の取材は、週刊誌が中心に行っていた。まだ、パソコンも携帯電話もない時代。記事は、FAXではなく、記者が現地から日本に電話をかけ、それを口述筆記していたと記憶している。あの頃、週刊誌には、売り上げとともにふんだんな資金があり、金に任せての大取材を行っていたのだ。現地で取材していた、私よりも6歳ほど年上の記者たちは、今はもう数人しか残っていない。
2人の恋が、どうして終焉を迎えたのか……私にはよくわからないが、デヴィ夫人は「貫く愛」の詞に、津川への本心を込めたのではないかと思う。
石川敏男(いしかわ・としお)
昭和21年11月10日生まれ。東京都出身。『ザ・ワイド』(日本テレビ系)の芸能デスク兼芸能リポーターとして活躍、現在は読売テレビ『す・またん』に出演中。 松竹宣伝部、『女性セブン』(小学館)『週刊女性』(主婦と生活社)の芸能記者から芸能レポーターへと転身。