なぜミッツ・マングローブの毒舌は炎上するのか? マツコとは異なる“自意識のあり方”
それに対し、ミッツは末席に座ること、自身を“引き算”して見せることができない。『5時に夢中!』に作詞家・及川眠子氏が出演した時のこと。及川氏といえば、日本レコード大賞に輝いたWINKの「淋しい熱帯魚」、JASRAC賞金賞の高橋洋子「残酷な天使のテーゼ」を手掛けた超売れっ子作詞家だが、ミッツは及川氏を「大先生ですよ」と称えた後に、「私も相当影響を受けましたからね」と結んでいる。
褒め言葉のつもりで使っているのだろうが、一般的に「影響を受けた」というのは、頭角を現した新人が、同じ分野の偉大な先輩を称えて使う言葉ではないだろうか。「ファンです」と言うのならともかく、その道で実績もないミッツが、日本を代表する作詞家と同じ次元と高さで物を言うのは、私には不遜に思える。
さらに、ミッツは“下”に見られることを嫌う。11月11日放送の同番組で、「オンナ芸人って、おネエもそうなんですけど、『不幸を背負ってないと商品価値がない』みたいな扱われ方するじゃないですか」と分析したが、視聴者がリア充を嫌う昨今、幸せに見せないようにするのは、女優やモデルも一緒であり、何もおネエに限った話ではない。
また「オンナ芸人にセクハラまがいのことをするのに、裸になると引く」ことを、ミッツは「男社会の縮図」と批判するが、その一方でゲストのハリセンボン・箕輪はるかに対して、「結核菌みたいな顔をしてよく言うわ」と発言していた。女性の外見を他人がとやかく言うのは、典型的な「男社会の縮図」だと私は思うが、自分がする分にはいいらしい。要は自分に甘いのだ。
ミッツの初エッセイ『うらやましい人生』(新潮社)や『プレミアムカフェ』(NHK)などを見ると、ことあるごとにミッツが「自分は少数派である」という意味の発言をしていることに気付く。一見“少数派”を自称することは、自身を“引き算”して見せているようにも感じられるが、下に見られたくないというミッツの言動を踏まえると、それは“選民意識”に近いものなのではないだろうか。対してマツコは、『山里亮太の不毛な議論』(TBSラジオ)で、自らを「(私は)男チームにも入っていないし、女チームにも入ってないし、サラリーマンチーム、OLチームにも入ってないし、お母さんチーム、お父さんチームにも入ってないわけじゃん。そうなってくると、(私は世間にとって)“関係ない話してる人”なわけじゃん」と、自分の存在を“はぐれ者”のように捉えている。
選民思想を持つミッツ型の自意識が強いことは言うまでもないが、自分をここまで突き放せるマツコの自意識も、相当強い。たとえていうのなら、マツコが修道女で、ミッツは女王様。どちらが正しくて、どちらが間違っているということはもちろんない。たどりつく結論は、おネエも人それぞれという当たり前のことなのである。
仁科友里(にしな・ゆり)
1974年生まれ、フリーライター。2006年、自身のOL体験を元にしたエッセイ『もさ子の女たるもの』(宙出版)でデビュー。現在は、芸能人にまつわるコラムを週刊誌などで執筆中。気になるタレントは小島慶子。著書に『間違いだらけの婚活にサヨナラ!』(主婦と生活社)、最新刊は『確実にモテる 世界一シンプルなホメる技術』(アスペクト)。
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