なぜミッツ・マングローブの毒舌は炎上するのか? マツコとは異なる“自意識のあり方”
羨望、嫉妬、嫌悪、共感、慈愛――私たちの心のどこかを刺激する人気芸能人たち。ライター・仁科友里が、そんな芸能人の発言にくすぐられる“女心の深層”を暴きます。
<今回の芸能人>
「結核菌みたいな顔してよく言うわ」ミッツ・マングローブ
『5時に夢中!』(TOKYO MX、11月11日放送)
今年の夏に開催されたリオデジャネイロオリンピックで、レスリングの吉田沙保里が決勝で敗れ、号泣した。この話題を『5時に夢中』(TOKYO MX)で取り上げた際、ミッツ・マングローブが「涙がひと粒も出なかった。かえってしらけちゃって」と発言したことで、炎上。ミッツが自らのブログで謝罪をしたことをご記憶の方もいるだろう。
懸命に戦ったアスリートに、そんな言い方ないだろうと思うが、その一方で、国民のおネエタレントに対する“思い込み”にも気づかされる。視聴者は、「おネエタレントとは、思いもよらない斬新な切り口で、面白い毒舌を吐く存在」と思い込んでいないだろうか。
人と違った経験が、面白い毒舌を生むと思っている人は多いかもしれないが、私に言わせるのなら、面白い毒舌の決め手は経験ではなく、“引き算のうまさ”であり、そのベースになるのは“常識”だと思っている。ミッツは一般的には、マツコ・デラックスと同じ系統の毒舌オネエタレントと思われているだろうが、私にはミッツが“甘えん坊タレント”に見えるのだ。
そのことは、マツコとミッツを比較することでよくわかる。
バラエティ番組を見ていると、「俳優>お笑い芸人」という上下関係に気付かされる。明石家さんまクラスの大物でも、出演者の俳優には気を使っており、マツコはその辺のフォーメーションをよく読んでいる。マツコがバラエティ番組に出だした頃、まるでお約束のようにやっていたネタがある。それは、まず巨体をいじられ、その次に男性の芸人に抱きついて「好きなの」と迫り、抱きつかれた芸人が「やめて」「気持ち悪い」と拒絶する……というものだ。テレビ的な演出だろうが、マツコは貶められることによって、視聴者に自らのポジションを「お笑い芸人より下」であると印象付ける。つまり、自分を“引き算”して見せているのだ。芸能界のキャリアが長い方を立てるのは、常識的な観点から言って正しいし、何より結果としてマツコを輝かせることになる。末席に座っている人が面白いからこそ、その存在が光るのである。
人気を得ると共に、マツコは“下”の席に座ることを許されず、“上”に押し上げられるようになるが、それでも“引き算”をやめない。毒舌を吐きながらも、自身が「結婚して子どもを持って一人前」という“常識”にハマらないが故の、老後の孤独をのぞかせる。今が恵まれているからこそ、先のことが不安になってしまうという見方もできるが、老後に何の心配もないという人はごく少数。マツコはこの“引き算”によって、「マツコほどの売れっ子であっても不安を感じるのだ」と、視聴者に親近感、もしくは優越感を抱かせることに成功している。