湯山玲子×二村ヒトシ×カンパニー松尾と考える、“M女”からの解放と“女性向け”性コンテンツの方向性
『日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない』(幻冬舎)を上梓した、著述家・湯山玲子氏とAV監督・二村ヒトシ氏が、5月18日にインターネットストリーミングサイト「DOMMUNE」で、トークイベント「実写版『日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない』」を開催した。恋人のいる若者は減り、結婚するのも難しければ、夫婦間でのセックスレスも当たり前になったニッポンの男と女。「実際のセックスは面倒だ」と、セックスへの絶望が男女問わずに深まっている。どうしてこのような事態になったのか、前半は本書の概要を解説しながら語り合った。
■女性の性欲の発露としての「M女」志願
イベントの前半では、夫婦間、もしくは長年のパートナーシップでは「セックスレスは大前提として考えなければならない」という指摘が2人からなされた。その状況を助長しているのが、男女の意識の乖離である。
「女性の性に関するタブーは昔よりは相当なくなってきてはいるが、一般的に、女性が自分から『欲しい』と言えば、まだまだ『好きモノ』とされ、ネガティブなイメージが付いて回る。ということは、女性は相変わらず“待ちの姿勢”と数々のモテノウハウで、男性の攻撃性を誘発し、自分に向かってくることで安心を得る。男性の性衝動を誘発するという意味で、M女を自認する女性が増えている」(湯山氏)
女性はセックスにおいては意思を出さない「受け身」が基本であり、日本のセックス文化には、支配(男性)と被支配(女性)という立場の高低差が内在しているという。しかし男の領域だった仕事の現場に女性が進出し、「エライ」の正体がバレたことで、男女の高低差がつくりにくくなり、欲望のスイッチの役目を果たさなくなってきた。ちなみに、男女の高低差を基本として欲情回路を求めてきたのが、AVコンテンツである。
二村氏は、「かつてはセックスの情報が少なく、パートナーと2人で試しながら気持ちがよくなる方法を探したものだった。現代では、男はAVをたくさん見ることでセックスをわかった“つもり”になり、目の前の女性の容姿や行動が“AVの中の女性を超えるものではない”と、しらけてしまう。一方、女性は男性から求められることで自分を肯定できたはずなのに、男性が目の前にいる自分をきちんと求めてくれないから、結局セックスは自分を肯定するものではなくなってしまった」と語る。
この現状に愛想を尽かしてしまったのが女性。「かつて女性の性欲はないものとされてきたけれども、近年では、ゲームなり漫画なりAVなり、女性のファンタジーを表現したエロコンテンツが隆盛し、女性が男性相手にわざわざ“M女”志願をし、軽蔑されることで萌えるという『嫌な道』を通らなくても、スマホで手軽にマスターベーションすることで、性欲を発散できるようになった。“男がいなければ、自らの性欲を満たしてもらえない”というのはウソだと気付いたんです。とすれば、男いらず。このままでは恋愛の現場すら失われ、セックスは特別な愛好家だけが楽しむ贅沢品になるのではないか」と湯山氏は語る。
■“名誉男性”のサブカル女子が『テレキャノ』を笑う
トークショー後半は、AV監督のカンパニー松尾氏がゲスト出演し、『劇場版 テレクラキャノンボール 2013』の話に。同作は、AV監督たちがバイクやクルマで移動し、各都市で素人女性をナンパしてセックスする様子を撮影。その結果によるポイントを競っていくドキュメンタリータッチのロードムービー。セックス相手の女性が40代の場合は減点され、18~19歳は加点、顔を出すと加点などのルールがある。2014年に全国で上映され、1万人動員という異例の大ヒットとなった。
湯山氏はこの作品について、15年2月12日にウェブサイト「幻冬舎plus」で公開された松尾氏との対談(現在は、『「劇場版テレクラキャノンボール2103」が教えてくれる男と女とその時代』として発売中)で、「女性を蔑視することが、こんなにも勃起の動機となり、マウンティングして順位付けすることで欲情を掻き立てるストーリーがいまだにこんなに強固なのか」「デブで中年でブスな女が肉食だとすると、男からも、女からも蔑まれてしまう」などと批判、特に劇場で男たちと一緒に笑っていた「女」に怒髪天を衝いていた。