上野千鶴子&湯山玲子が語り尽くす! 女のための『ヘルタースケルター』論【後編】

男は女の欲望のツール……上野千鶴子&湯山玲子が語る『ヘルタースケルター』

2012/07/24 11:45

(前編はこちら)

 ジェンダー論の第一人者である上野千鶴子氏とカルチャーシーンから女性の生き方を説いてきた著述家の湯山玲子氏が、蜷川実花監督、沢尻エリカ主演映画『へルタースケルター』について語り合った。

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■女の欲望は、“欲望される欲望”

上野 りりこは、イタい女の典型ではあるんだけど、にもかかわらずこの映画は安心して見ていられた。なぜなら、これは女の女のための女による映画だから。麻田という検事を除いて、登場する男という男はみんな女の欲望のツールになっているでしょう。だから、どんなにエロいシーンでも、女が男の欲望の犠牲者としてでなく、自分自身の欲望の主体になっている。だから、不快感を感じずに見ていられる。登場する男たちは、女の“表層”にしか反応しないわかりやすい男ばかり。完璧な“表層”を持つりりこは、どんな男でも従わせることができる。りりこに屈服する男のバカさかげ加減がよく表されていますね。

湯山 りりこは「私の人生は私が決めてやる」という意志的な女。普通に生きていると、退廃&洗練&思考停止に陥ってしまう今の女の子にとっては、ショック療法かもしれない。「あなたたちより私の方が生き生きしている」というメッセージですね。だから、これをイタい悲劇とは思わずに、カラッと「あっぱれ」と思う人の方が多いと思う。

上野 そう。悲劇だけど自ら破局へと突っ込んでいく欲望の主体。女の欲望を実にうまく描いています。女の欲望っていうのは、“欲望される欲望”。誰に欲望されるかといえば、欲望する主体は、男からいつのまにか女になっている。もっとも象徴的だったのは、「きゃー、りりこー」と声を上げている観衆。みんな女の子でしょう。りりこはAKB48と違って男の子のアイドルじゃない。りりこは女の欲望のアイコン、女に欲望される女なんです。つまり、スーパーフラット(=日本の消費社会を象徴するようなアニメ的な、二次元的な)ビューティの目標は、男にモテることではない。それは、90年代のヤマンバギャルに象徴される女子文化の帰結とも言える。それは80年代にはなかったと思う。


湯山 そうですね。90年代は端境期で、原作当時はまだ「男に欲望される欲望」が残っていたから、りりこになって嫁にいくのもアリかもしれないけれど、今はそれでOKという声は、申し訳ないけど世間様のどこにもまったくない(笑)。

上野 ない。女子文化の中で価値が完結してる。一旦、若さと美に対するアディクション(=嗜癖、依存)が始まったら止まらなくなって、もはや男目線がゴールではなくなるんですよ。これ、おもしろいと思った。今どきの女の子たちがなぜメイクやおしゃれをするのかというと、同性の視線を意識してのことだもの。

湯山 そうですよね。それと、自分に返ってくる視線かな。完全にマスターベーション快楽の回路ですよね。

上野 あなたの提唱する男要らずの“光合成(※性欲を自分でまかなうこと)”女子 ね(笑)。

湯山 そう。アレはよく欲求不満の男の代替だと思う人もいるけど、まったく違う快楽の方法。「私がやって、私が気持ちいい」と。生身の女とのコミュニケーションを面倒くさがって避け始めている男とどっこいどっこい。「もう男はいらない」という今の女性の気分は、蜷川演出でより増幅されたかたちで出ていましたよね。これ、予想通り男の映画ファンに反発が多いのだけど、それは、映画に出てくる男がりりこに欲望されるだけのぺらぺらな存在だからでしょうね。


上野 きっと、この映画を見ると不甲斐なくなると思うよ。男性の意見を聞いてみたいですね。リトマス試験紙になると思う。

■“りりこ”は死なない

上野 この作品は、若さと美貌の価値を200%享受した女性が最後に報いを受ける、いわば因果応報の物語になってる。でも、作者はりりこを死なせなかった。物語に続きがあるとすれば、りりこはこの先、どうやって生き延びればいいんだろうか。

湯山 自分の思想の中で人生を貫徹するのでは、と。彼女は宗教っぽい感じもあるよね。欲望のままに自分の表層を変えて、欲しいものを手に入れて、自分が信じる観念の世界に自分自身を捧げる求道者。ラストシーンは即身仏の境地ですよね。

上野 確かに、転落につぐ転落で最底辺まで行くけれども、実のところはものすごくプライドを持って描かれてる。最後まで羽田をかしずかせて共依存的関係を続けつつ。社長の多田が若い時の自分をりりこに再現したように、同じような女の子を集めて置屋の女将になるのもいい。

湯山 そうですね。生き残り方を想像してみるのは面白い。映画を見終わった女友達同士で語ってみるのもいいかもね。増殖したミニチュア版りりこを、女王蜂のように飼う、置屋の女将、というのは確かにあるかも。りりこのように欲望を化け物化させ暴走させていた女は、太古の昔から存在する。これは人間の性。どうしようもないものを描いている古典的なものでもありますね。 なんか、鬼子母神とか、娘道成寺の清姫とか、古典的なキャラにも重なるんですよ。

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監督の蜷川実花氏

上野 作品の中にはできた途端から古典になるものがあるけれど、この作品はまさにそう。今の日本の女性クリエイターは、少女マンガに深い影響を受けている人が多いけれど、蜷川さんもそうだと思う。写真家出身であり、映画も二次元的。どこか紙芝居っぽい。マンガのコマ割りを1つずつ見ていけば、紙芝居でしょう。

湯山 そうですね、映画の絵コンテはマンガのようなものですからね。そういえば、蜷川さんにはぜひバレエ映画を撮ってほしいな。ダーレン・アロノフスキーがプロレスみたいなバレエ内幕もの『ブラックスワン』を撮ったけれど、女の園としてのバレエワールドをぜひにも。

上野 バレエをネタにした少女マンガはいくらでもあるから、体がきれいなうちにエリカ様に演じてもらいましょう。グローバル市場の文化消費材にもなるし。日本のガーリー文化の背景には男女別学文化の性別隔離(ジェンダー・セグリゲーション)があると思う。だとしたら最大のマーケットはイスラム圏の女部屋じゃないかしら、とかねてから予想しています。産油国へ輸出して外貨を稼ごう(笑)。

湯山 それ、いいアイデアですね(笑)。その時は私めの美人寿司も出張開店だな。
(取材・構成/安楽由紀子)

上野千鶴子(うえの・ちづこ)
1948年富山県生まれ。京都大学大学院社会学博士課程修了。現在、東京大学大学院教授。女性学、ジェンダー研究のパイオニア。1980年代以降、常に時代の先端を疾走し、現代社会のさまざまな問題を問い続けてきたフェミニスト。1994年『近代家族の成立と終焉』(岩波書店)でサントリー学芸賞を受賞。女性をつなぐ総合情報サイトWAN理事長

湯山玲子(ゆやま・れいこ)
1960年生まれ、東京都出身。著述家、ディレクター。日本大学藝術学部文藝学科非常勤講師。編集を軸としたクリエイティブ・ディレクション、プロデュースを行なう。著書に『クラブカルチャー!』(毎日新聞社刊)、文庫『女ひとり寿司』(幻冬舎刊)、『女装する女』(新潮社刊)など。自らが寿司を握るユニット「美人寿司」も主宰し、内外で活躍中。

最終更新:2012/07/24 11:45
『ヘルタースケルター 映画・原作 公式ガイドブック』
女の“欲望される欲望”こそ現代のエネルギー