結婚願望ナシの女から見た、「結婚したい男女」の欲望と誰もが抱える「不安」のゆくえ
結婚にまつわる取材記事を5回にわたって連載してきた。1回目【婚活】では、女性が思うよりよっぽど男性は女性の年齢を気にするという事実を、2回目【男性学】では男性にとっても結婚とは「普通」である状態を延命する意味があることを、3回目【カウンセリング】ではなぜ親に不満があるのに、親と似たような家庭を自分も作ってしまうのかという心の構造を、4回目【中高年婚活】では高齢者ならではの事情と、それでも人と家庭を持ちたいという思いを、5回目【エリート婚活】では、2人の育った家庭の経済状況が異なりすぎると、「恋愛」はともかく、「生活」は難しいのであろうということを知った。
私は子どもが好きではないのもあって昔から結婚願望がなく、そのため自分の知らない「結婚を望む」世界を見てみたくもあり取材を進めてきた。そこで思ったのは「欲望」の不確かさと、なぜ「不安」になるのか、という疑問だ。そして、それには結婚願望のない自分にも心当たりがあった。欲望はなぜ不確かで、不安の奥には何があるのか。その正体を探り、連載の最終回としたい。
■「結婚したい」より奥にある欲望
結婚願望のない私の20代の頃の願望は、「かっこいい男性にちやほやされたい」だった。「結婚したい」や「セックスしたい」よりも実現難易度の高い願望かもしれない。また私は蛯原友里と押切もえと同じ学年になるため、20代が赤文字雑誌の全盛期と重なる。モテこそ全てな当時の風潮も自分の「ちやほやされたい」欲望に拍車をかけた。モテるわけではないのに大それた目標を立てたと思うが、当時の私は、それが大それた目標であることにすら気がついていなかった。自覚も着実さもない目標は当然のようにうまくいかず、あの頃の出口の見えない日々を思うと暗い気持ちになる。
一生ちやほやされている人を妬み続けるのかと思っていた日々の終わりは、思いがけない形で訪れた。会社員からフリーランスになり、暇な中でようやく来た仕事が無事終わり、担当者の人にかけられた「石徹白さんがいてよかったです」という一言がそれだった。言った本人にしてみれば社交辞令的な言葉だったと思うが、その一言で、頭上にあった長年の煩悩が成仏したのを感じた。別に私は「イケメンからちやほや」されなくてもよかったのだ。必要とされた手ごたえがほしかったのだ。