祇園の芸者×舞妓志願の若い娘――『祇園囃子』に見る、「男の世界」に独りで生きる女の見栄
――母と娘、姉と妹の関係は、物語で繰返し描かれてきました。それと同じように、他人同士の年上女と年下女の間にも、さまざまな出来事、ドラマがあります。教師・生徒、先輩・後輩、上司・部下という関係が前提としてあったとしても、そこには同性同士ゆえの共感もあれば、反発も生まれてくる。むしろそれは、血縁家族の間に生じる葛藤より、多様で複雑なものかもしれません。そんな「親子でもなく姉妹でもない」やや年齢の離れた女性同士の関係性に生まれる愛や嫉妬や尊敬や友情を、12本の映画を通して見つめていきます。(文・絵/大野左紀子)
■『祇園囃子』(溝口健二監督、1953年) 美代春×栄子
「義理と人情」という言葉には、古風な響きがある。義理とは他人とのしがらみから生じる責任であり、人情は他人への思いやりや愛情。それらはかつて、庶民の道徳律だった。
スッキリした契約に基づく貸し借りが好まれる現代だが、実際の人間関係で義理はまだ生きている。この間あの人に奢ってもらったから今度はごちそうしよう。お世話になっている人だからお歳暮贈らなきゃ。そこにあるのは、社会生活を円滑にする義理の感覚だ。
人情ももちろん生きている。募金やボランティア活動の基盤にあるのは人情と奉仕精神。乗り物の中でお年寄りや妊婦に席を譲るのも人情。情けの見返りは求められない。しかし義理も人情も、時に人を束縛し苦しめる。どちらにも骨がらみになってしまった時、女は何を守り、何を失うのだろうか。
今回取り上げるのは、『祇園囃子』(溝口健二監督、1953年)。人情から年下の女の身柄を引き受けることによって、思いがけなくさまざまな義理の生じた女が、自分の見通しの甘さから義理を果たせず、さりとて人情を捨てることもできず、抜き差しならない事態に追い込まれていくという話である。
あらすじを紹介しよう。主人公は、旦那を持たずに芸者をやってきた美代春(木暮実千代)。ある日、昔の馴染み客の妾の娘で、母に死なれ行くところのない栄子(若尾文子)が訪ねて来る。「舞妓になりたい」という願いを聞いて妹分にしてやった美代春は、祇園を仕切る料亭の女将、お君(浪花千枝子)に借金の相談に行く。
やがて修行を重ねお披露目となった席で栄子は、車両会社の専務の楠田に見初められ、同時に美代春も、そこで接待を受けていた役人の神崎に一目惚れされる。神崎に取り入って大きな仕事の受注を受けたい楠田の部下・佐伯は、美代春が神崎と寝るように計らってほしいと女将のお君に頼み、お君は美代春にそのことを匂わせるが、美代春は乗り気ではない。お君から頼まれて栄子のお披露目費用の全額を出している楠田が、さっそく彼女の「旦那」になりたがるのにも、難色を示す。
なかなか進展しない事態に焦れた楠田は、東京見物を仕組んで美代春と栄子を連れて行き、神崎と美代春を会わせる一方、自分は栄子に強引に迫るが、激しく抵抗されて大怪我をする。この騒ぎで、神崎は美代春を自分のものにできず、楠田が神崎に期待していた受注の件は宙に浮いてしまう。