「自分は生きる価値ないゴミ」と自虐するヒャダイン、その恋愛論に感じた強烈な万能感
そんな2人は、他人が家にいる状態が想像できないので、同棲や結婚に踏み切れないのだそうだ。ヒャダインは「自分の存在は、相手にとって害悪。申し訳ない存在」故に、相手を楽しませなくてはいけないという義務感に駆られ、「ゲームしてても、かまってあげないといけないでしょ」と考えてしまう。朝井はヒャダインの心理を「人の時間を奪うからには、何かメリットを与えないといけないと考えるんですよね」と補足した。ヒャダインの過剰な義務感は、相手によく思われたいという気持ちから生まれるため、自身で「自意識過剰なだけなんですよね」と結論付けた。
ヒャダインの態度は、社会的に成功しているにもかかわらず、腰が低くて誠実ととらえる人もいるだろう。けれど、私に言わせると、これはもう自意識過剰を通り越して、過剰な“万能感”にしか思えない。
ヒャダインの自信のなさは、自分の潜在能力がものすごい(つまり、社会的に“上”の存在)と思っているから、他者から見ればすばらしい結果も「自分ならもっとやれるはずだ」と満足できず、自分を「ゴミ」とか「害悪」に感じるのであろう。
自分の描いた絵が1,000万円の価値があると思ったのに、画商に1万円と言われるのと、5,000円だと思って描いた絵が1万円で売れたときの気持ちはまったく異なる。1,000万円だと思っている人は「自分はゴミだ」と思うだろうが、5,000円と思っている人は「案外、才能あるかも」と好意的に受け止めるだろう。万能感が強すぎるから、傷つくのだ。
ヒャダインの「かまってあげる」発言に漂うのも、「相手が自分を求めてやまない」「自分がかまってあげれば相手を楽しませられる」と疑わない、決めつけに似た上から目線である。藤井はそんなヒャダインを、自分が相手に寂しい思いをさせることもあるけれど、相手が自分をかまってくれないこともあるので「お互い様ですよ」と諭したが、ヒャダインの一方的な自分が時間を割いて“あげる”というニュアンスの発言からは、尊大さしか感じない。やはり男の自虐は強すぎる“万能感”から生まれると思ってしまう。
社会的に成功しているのに、自虐的な発言が目立つヒャダインのような男性を「私がいつも励まして、自信をつけてあげたい」と思う女性がいるけれど、こういう人は自己愛が半端なく、ある種の残酷さを持つので、気をつけていただきたいものだ。
仁科友里(にしな・ゆり)
1974年生まれ、フリーライター。2006年、自身のOL体験を元にしたエッセイ『もさ子の女たるもの』(宙出版)でデビュー。現在は、芸能人にまつわるコラムを週刊誌などで執筆中。気になるタレントは小島慶子。
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