「かつては特別だった」普通の私――ミッツ・マングローブ本に見る、オネエを求める女の自己愛
筆者がそれを確信したのが、父親の友人から頼まれたという丸の内のスナック「来夢来人」の女装ママのくだりだ。
「最初の1年ぐらいは『ホントのアウェー感ってブーイングを受けることではないんだ』というのをひたすら痛感する日々で、とにかく『今、私は誰の目にも見えていないんじゃないだろうか』という瞬間の連続だった」というミッツ。「私のような『ちんどん屋稼業』は、歓迎されるか驚かれるかしないと成立しないの。『見なかったことにされる』とか『認識してもスルーされる』のが最大の恐怖。それだったら『来るな! 出てけ!』と石を投げられたほうがマシなわけ」
オネエがもてはやされることを「いつまで珍しがってるんだ、こいつらは……」と呆れながら、見えないものとしてスルーされることに恐怖を覚える。自分でも手の付けようがない強い自我がミッツの中で暴れ回っていることを感じさせる印象的なエピソードだ。
“人がオカマに抱く勝手な幻想”に腹を立てるミッツだが、ノンケの女性や男性に対しては驚くほどナチュラルに“勝手な幻想”を抱く。それは恐らくミッツ自身が、女性や男性を「記号」として捉えているからだろう。「普通の男子」の象徴が「サッカー」だったり、女装スイッチを入れるサインが「ハイヒール」だったり。だからこそ「女らしさ」から自由になった女たちが、口紅も引かず、ヒールも履かずに「女」を名乗ることが許せない。
「どうしたらモテるか」という質問を死ぬほどされるというミッツは、「要はあからさまに女を武器にすればいいんだよね。髪を伸ばして、口紅を引いて、短いスカートを穿いて、ゆっくり動いて、ゆっくり喋って、まばたきと『知らな~い』『分かんな~い』を多めにしておけば、少なくとも男の視線は稼げる」という。“毒舌なオネエ”なんてステレオタイプを遥かに凌駕する、ほぼコントのような男性観/女性観。頑張ってもなれなかったという「普通の男性」「普通の女性」は、ミッツにとってこんなにも単純でチョロい生き物なのだ。
カテゴライズされること、ラベリングされることは、息苦しさを生む一方で、それが生きやすさになることもある。ミッツも世間が求めてくる“言いたいことを言うオネエタレント”像に反発しながら、その「お務め」を果たし切れない自分を「プロフェッショナルになりきれない」と苛立っている。生活という圧倒的現実に向き合うつらさは、男も女もゲイも関係ないだろう。誰もが「お務め」に反発しながら寄り添いながら、女装したり男装したりしているものだから。ただこの“勝手な幻想”もまた、「普通の男性」「普通の女性」どちらにも与することのない「私」への慰めなのかもしれない。自分を嘆けば嘆くほど、卑屈になればなるほど、ミッツが抱えた自己愛が文字の端々から滲み出てくるようだ。
自分探しの旅は孤独である。だからブレずに、自分らしく、正直に生きていそうな人を探しては心酔し、そこに自分の答えがある錯覚を起こすのかもしれない。こんなにも自分が囚われている“女性”を軽やかに演じ、性別も社会の枠も軽やかに飛び越え、自由に、自分の人生を思うがままに生きている人間。
女がいわゆる“オネエ”に人生の指南と癒やしの両方を求めようとする背景には、かつて自分を支えていた「特別な私」というアイデンティティを「特別な人たち」を媒介にして取り戻したい気持ちもあるように思う。それもまた凄まじい自己愛の成れの果て。ミッツはそういう女たちを「私を勝手に決めつけるな」と突き放すが、そこにまた共感と愛情を覚える女ならミッツの人生を「うらやましい」と感じられるに違いない。
(西澤千央)