「かつては特別だった」普通の私――ミッツ・マングローブ本に見る、オネエを求める女の自己愛
――タレント本。それは教祖というべきタレントと信者(=ファン)をつなぐ“経典”。その中にはどんな教えが書かれ、ファンは何に心酔していくのか。そこから、現代の縮図が見えてくる……。
「特別な私」「誰とも違う私」「普通じゃない私」という優越感と、「はみ出てしまう私」「みんなと同じようにできない私」「普通になれない私」という劣等感は、常に折り重なっている。その2つの感情はお互いを捕食しながらどんどん自意識を肥大化させる。それは恐らく誰もが一度は通るアイデンティテイの洗礼であり、人生における最初の舵取りともいえるだろう。しかしやがて年を取り、就職や結婚や出産、親の介護など社会の枠組みが圧力をかけてくるようになると、肥大化した自意識は悲鳴を上げ始めるのだ。特別だったはずの自分は、結局社会の中の単なる「会社員」「母親」「おばさん」でしかなかったと知らされる。その事実はあまりにも過酷で、さらなる途方もない“自分探し”に拍車をかけてしまいかねない。
ミッツ・マングローブの『うらやましい人生』(新潮社)は、こんな一文から始まる。「何にも縛られず、自分に正直で、堂々と生きているミッツさんて、なんか、うらやましい!」。しかしミッツはこの称賛を「私ってば、そんなに恥知らずで、奥ゆかしさのない人間なのかしら……」と突っぱねる。そして決して「うらやましくない」という自分の半生をセクシャルマイノリティの生き方と重ねて語るのが、この『うらやましい人生』だ。
ミッツの人生は「普通でありたい」という願望との戦いだったという。「人と大きく違うこととか個性的に見られることが、基本的に面倒くさいの。はみ出したくないの。個性なんてものをポジティブに捉えられるほど、私はおめでたい人間じゃないの」。小さい頃から「普通の男の子」になれない自分に悩んでいたミッツ。新宿二丁目という街に辿り着き、同じように悩んでいた仲間と知り合うことで、初めて居場所を見つける同性愛者は多いと聞くが、ミッツは違った。
「ゲイの中にいてもなお『何か変』って言われたしね。背が高すぎる、骨格や肉付きがどこか男らしくなくて、ヒゲも薄いし(中略)ようやく『普通』じゃなくても大丈夫と思えるはずの世界に入って、それまで以上の『普通』を求められた……」
「しかも私にとって唯一の武器と思っていた『女装』が、『ゲイ失格』の烙印になるとは、夢にも思わなかった。女装は『ゲイ』というマイノリティの世界の中のマイノリティだったということね」
ミッツは自らを「こじらせている」と表現しているが、筆者が、メディアでミッツを見る度に感じる“私はほかのオネエタレントとは違う”という強烈な自我の正体は、幼い日のミッツの“男にも女にも負けたくない私”に見て取れる。「男子的支配とは別の手法で権力を保持していく」ことにかける並々ならぬ執念。時には「お見合いババア」のポジションでクラスの恋愛事情までコントロールしようとする。権力への執着は「普通の男の子じゃない自分」が露見されるのを極端に恐れていた故というが、果たしてそれだけだろうか。むしろ「男」や「女」というジェンダーに飼いならされていく同級生たちを俯瞰で見ながら、そうならない「自分」に特別な価値を与えていたようにも感じられる。