「故郷なら言葉が通じる」母親のお骨とともに故郷に戻ってきた父親
■両親が大震災を経験しなくて済んだのが唯一の救い
高階さんの心を慰めたのは、皮肉にも東日本大震災だった。「両親があの大災害を経験しなくて済んでよかった。東京に行かせたことは後悔ばかりでしたが、唯一それだけが救いだった」とため息をついた。高階さんの町は原発から比較的離れていたとはいえ、津波の被害は大きかった。町役場関連の団体で働いていた高階さんは、震災後の激務で鬱と診断される。
「一緒に頑張っていたスタッフが、次々に心を患って休職してしまい、私も医者にはしばらく休んだ方がいいと言われたのですが、もうほかに交代要員がいない状態で……。うちは家族も家も無事だったので、被災された方のことを考えると、自分が病気で休むとはとても言えませんでした」
1年ほどは父親も帰郷できず、故郷の惨状に胸を痛めていた。母親は事態がよく飲み込めていなかったようだと言う。高階さんの病状と仕事が少し落ち着き、両親のもとを訪れることができたのは、震災から2年が過ぎていた。
「母の認知症は一気に進んでいて、私のことも最初誰だかわからなかったくらいでした。震災のためとはいえ、長いこと顔も見せられなくて本当にすまなかったと思いました」
母親はその後肺炎を併発し、東京で亡くなった。危篤と知らされた高階さんは急いで東京に向かったが、臨終には間に合わなかった。母親は東京に移ってから、一度も故郷に戻ることがなかった。せめて故郷で眠らせたいと思った高階さんは、福島に墓を建て、先日納骨を済ませた。
そして故郷に戻ってきたのは、母親だけではなかった。
「父をこちらに呼んだんです。ただ同居は無理なので、高齢者用マンションですが。父ですか? やっぱり故郷はいいって喜んでいますよ。母がいなくなったのはさびしいようですが、親戚も幼馴染もたくさんいるし、何より言葉が通じる(笑)と。そんなにしゃべる人じゃなかったのに、この数年福島弁を話せる環境になかったせいか、よくしゃべるようになりましたね」
この数年分の空白を取り戻すように、父子で語り合っている。そう言う高階さんの表情は晴れやかだった。