「婦人公論」の「モノや夫を捨てれば幸せになる」という奇跡の実話に感じる闇
ここで大切なのは「なにかを捨てれば、なにかを得られる」という信念にも近い思い込み。たまたま断捨離をしたタイミングで、アルバイトの口を紹介されたのだとしても「『不要なモノを捨てたから幸運がやってきた』と考えたくなる」、このポジティブシンキング。「人知れずきれいになっていく家、高まる自己評価。そして預金通帳には6桁の臨時収入」、これです。幸せとはなんたる自家発電。一介の中年女性が劇的に人生を変えることは難しい。しかし得ることは難しくても、捨てることならたやすい。高収入の夫を捨てた女性も住み慣れた土地と職を捨てた女性も、女特有の適応能力と激しい思い込みがあったからこそ、結果オーライと笑えるわけです。女にとって「捨てる」とは、人生における数少ない可能なアクションなんだと、今号の特集でしみじみ感じました。もしかしたら「捨てる」ために「持っている」のかもしれません。思い出の品も、夫も。
■「捨てる」ために持ってしまった女たち
ここにも1人「捨てる」ことを選んだ女がいます。作家・村山由佳のインタビュー「『結局、オレはポイ捨てかよ』彼の言葉が胸に突き刺さる」は、定職を持たない9歳下の夫との離婚を選んだ「男性に尽くしまくってしまう」女の物語。「婦人公論」読者が捨てたくて仕方ない夫。でも多くの読者は実際には捨てることはせず、「捨てたいわ~」と言い続けることを選ぶでしょう。なぜ村山は「捨てる」ことを選んだのか。そこには「幸せ」や「自己実現」とは少し異なる、女の怖さがありました。
「私は思ったことを相手にぶつけるより、我慢して呑み込んでしまうほうがストレスの少ないタイプ」と話す村山。村山は、それを水を湛えたコップで表現しています。「毎日の生活のなかで少しずつ心に溜め込んできたものが、いつか表面張力の限界を超えて溢れそうになる。でも、しばらく我慢しているうちに蒸発してすうーっと水位が下がっていく――ということを、ずっと繰り返してきたんです」。永遠に破られることはないと思われていた我慢の“結界”は「こんな小さなことをきっかけに、男と女は駄目になるんだなぁ」とあきれるほどのことで、ついに破綻を迎えます。それは猫トイレの掃除。「あれ? もしかして、今のが最後の一滴だった?」
年下のモテ男、元小説家志望、妻の事務所の名目社長……なにより売れっ子小説家の夫。危ういバランスのまま8年の結婚生活を過ごした夫婦。そんな夫にただ一つだけ「私を女にしておいてね」というお願いをする妻。それは「稼いでね」よりも「家事をしてね」よりも難解な仕事ではないですか。「女遊びをしたのも借金を作ったのも、どこか由佳への復讐みたいな気持ちがあった」という夫の言葉には、夫婦の修羅がありありと見てとれます。妻が夫に対して寛大になればなるほど、夫という生き物は自ら破滅の方向へ進んでしまうのですね。エサをあげすぎて死んでしまう金魚のようです。
「相手が望んでいようといまいと、とことん尽くす。相手のためではなく自分のためです。なぜなら、そうしていないと、相手に必要とされるだけの価値が自分にあると思えなくて不安でたまらないから」「結婚すると、私の内側に『女大学』とでもいうべき規範が発動してしまい、誰にも強制されていないのに、自分で自分を縛ってしまうのです。妻たるものこうであるべし、と」。女が“内なる女大学に縛られる私”というナルシシズムが満たされる一方で、男の弱さはどんどん肥大化する。肥えて肥えて身動き取れなくなった瞬間にパッと手放す。悲しいかな、やはり村山も「捨てる」ために持ってしまったんだろうなぁと思うのです。それは小説家の業かもしれないし、女の業かもしれません。どちらにしても、女の「断捨離」には、すっきり幸せになる以上の底知れぬ闇があるように思えて仕方ありません。
(西澤千央)