男にとってEDは死活問題なのか? 渡辺淳一の自伝的小説に感じる“勃たない男”の滑稽さ
■今回の官能小説
『愛ふたたび』(渡辺淳一、幻冬舎)
セックスにおいて“受け入れる側”である女は、相手と気持ちさえあれば、生涯セックスを楽しむことができる。しかし男はそういうわけにもいかない。加齢とともに“ED”という恐怖が待ち受けているから。男たちにとって、勃起は男としての誇りのようなものなのだろう。若い頃は痛いくらいにそそり立っていたものが、次第に勢いを失っていき、やがてピクリともしなくなる日がくる。女を抱けなくなったとき、男たちはどう感じるのだろう?
今回ご紹介する『愛ふたたび』(幻冬舎)は、晩年にインポテンツに悩まされていた渡辺淳一の自伝的小説だ。公立病院を退職し、整形外科病院を開業している主人公の「気楽堂」こと国分隆一郎。彼は73歳になっても、女性に不自由していない。妻に先立たれてからは、日々女性との楽しい一夜を謳歌していた。
しかしある日、セックスフレンドである婦人との行為を楽しんでいるとき、気楽堂の下半身は途端に不能となってしまう。医師という職業柄、60代の頃からED治療やバイアグラを使うようにしてきた。人一倍「不能」になることを恐れ、対処してきた気楽堂は、どれほど刺激を与えてもピクリとしない下半身に驚愕する。
挿入不能な下半身を持つ自分は、「これで、俺は男でなくなったのだ」と感じる一方で、気楽堂はまだ女への欲望を捨てきれない。そんなある日、彼のもとに1人の魅力的な患者が現れる。彼女を抱きたい。しかし気楽堂の下半身はすでに挿入不能。そんな彼は、彼女と関係を持つべく、とある行動に出るのだが――。
生きていれば、誰でも老いる。体のつながりの延長に、心のつながりを意識しがちな女は、挿入ができなければ、肌を重ねるだけでも幸せを感じられるし、老いた体を見せることが恥ずかしかったら、手をつなげばいいと、前向きに老いてからのセックスを捉えられるだろう。
しかし、気楽堂が「セックスの終わりは人生の終わり」と言っていたように、男にとって勃たないという事実は死活問題のようだ。そこには、男は狩りをする生き物であり、男本来の征服欲を満たす行為という認識があるように思う。そういった考えを持つ男が、「牙を抜かれた」状態で生きることに、みじめな気持ちを抱いてしまうのは当然なのかもしれない。
私から見ると、気楽堂のようなおじいちゃまを愛らしく思ってしまう。それは、白髪を丁寧に結うおばあさんを見かけて、年齢を重ねても女は女でいたいと感じる可愛らしさに笑みがこぼれるように。
同時に、気楽堂を通して浮かび上がってくる、著者・渡辺には、どこか滑稽さも感じる。生前、地位も名声も一握にした渡辺。長年医師として働き、作家として大ヒットを飛ばし、求めるがままに大勢の女を抱いてきた。彼が生涯執着していたのは、雄の本能だった。あれほどの大物が、女からするといまいち理解し難い執着に苦しんでいるのが滑稽なのだ。そのことを、渡辺自身も十分理解していたのだろう。「男の人生はなんと滑稽ではかないのだろう?」渡辺は身を持って同性である男たちに投げかけているのかもしれない。
(いしいのりえ)