「女性ラッパー=セクシー」を破り、サウンドとラップで成功したミッシー・エリオット
そんな彼女を立ち直らせたのはメアリー・J. ブライジ。その頃に出会ったメアリーは、初対面のミッシーを引き寄せ、「ビッグサイズとか、そんなの気にするんじゃないわよ。しっかり顔をあげな」とアドバイス。ミッシーは、「生涯忘れない言葉よね。あの言葉にずっと励まされている」とうれしそうに告白している。
だが、1995年、ディヴァンテは所属アーティストへの束縛を強め、男性アーティストたちに暴行するなど大暴れした。父親のDVとオーバーラップしたミッシーは、「Sista」を解散させ、ニューヨークを引き払ってしまう。
実家に数カ月間引きこもり、自問自答したミッシーは「アーティストはもう目指さない。音楽プロデューサーになる」と心に決め、再びティンバランドと組もうとニューヨークへと向かった。そんな彼女を、R&Bやジャズの名門「アトランティック・レコード」は諸手を挙げて迎え、ティンバランドと共にR&Bスター・アリーヤのセカンドアルバム製作をするよう依頼した。
アリーヤのアルバム製作に夢中になり、スタジオに缶詰になっていたミッシー。そんな彼女に、ビッグチャンスが到来する。名プロデューサーP・ディディがスタジオの彼女を見て声をかけ、彼が手がけていた女性歌手ジナ・トンプソンの新曲『The Things That You Do』を聞かせ、ラップパートの制作を依頼。「これがラストチャンスだと気合を入れて作った」というミッシーのラップをディディはいたく気に入り即決。96年7月にリリースされたMVにはミッシー自身がラッパーとして出ており、たちまちブレイクしたのだった。
このMVが出た直後、アリーヤのセカンドアルバム『One In A Million』がリリースされ、こちらも大ヒット。ミッシーは、たちまち時代の最先端を行く女性ラッパー&プロデューサーとなり、引っ張りだこになった。ティンバランドと組んで製作したファーストアルバム『Supa Dupa Fly』はビルボード初登場3位となり、女性ラッパー初の快挙となった。同アルバムは高く評価された。ミッシーは「アタシはビッグなんだから、ビッグを売りにする。そして、ビッグなレコードを作ってやるんだ」と、リル・キムやフォクシー・ブラウンらが築き上げていた「女性ラッパー=セクシー」なイメージを崩した。セクシーな彼女たちと共に雑誌の表紙を飾ることもあったが、「いいのよ。ビッグガールだってイケてるんだから」と、自分のありのままの姿で勝負をかけた。巨大な体を恥じることなく、常に堂々としている彼女を多くの女性が支持した。
[成功への道]
マライア・キャリー、ホイットニー・ヒューストン、ジャネット・ジャクソンから「曲をプロデュースしてほしい」という電話を直々に受けるまでになったミッシーは、26歳で億万長者となり、少女の頃からの夢だった「母親に豪邸をプレゼントする」を叶えた。セカンドアルバム『Da Real World』も世界で300万枚売れる大ヒットとなり、HipHop界におけるヒットメーカーの座を不動のものとした。
2001年には旬の人気女性アーティスト、クリスティーナ・アギレラ、ピンク、マイヤ、リル・キムがコラボし、映画『ムーラン・ルージュ』のテーマソング「Lady Marmalade」をカバーするというプロジェクトに、プロデューサーとして参加。個性の異なる4人のアーティストを見事一つにまとめたとして高く評価され、初のグラミー賞を獲得した。同年リリースしたサードアルバム『Miss E…So Addictive』は爆発的なヒットとなり、全米アルバムチャート2位、R&Bアルバムチャートで1位を記録した。
しかし、03年以降、ミッシーの体重が減り続けるようになり、世間の女性たちは「やっぱりやせてる方がイケてると思ってるんじゃないか」「ありのままの自分に自信を持てと言ったくせに」と非難するようになる。実は、ミッシーは高血圧を悪化させており、体重を減らさないと脳梗塞を起こすと警告されていたのだ。週4日ジムに通い、食事も見直したミッシーは27kgの減量に成功。命拾いした彼女は、さらなるヒットとなった6thアルバム『The Cookbook』をリリースしたが、この年の春から彼女は体調を崩し、さらに激やせしてしまう。