「ガーリー」「女子」ブーム終焉で、女性たちの意識が向かう先とは
その一方で、最近流れているドコモ のCM、「dビデオBeeTV 転校生」篇 は、女子の中にある「大人の女への憧れ」をうまく表現している。ごく普通の女子高生である主人公が、転校生の女子と帰りのバスで一緒になる。バスの中で映画『マレーナ』を見ていると、「好きなの? モニカ・ベルッチ」とイヤホンをはずして聞いてくる転校生。「別に……」と言って席を離れる女の子にむかって「いいよね めっちゃエロくて」と、転校生がクールに言い放つ。そのただならぬ色気に「女子じゃない 女や!」とつぶやく女子高生…・・・という話。飛びぬけて大人な感性と色気をもった、女子の括りに収まらない「女」。少女の頃に憧れたのは、そんな空気感をもった「女」だった。「大人の女」と言える年になった今、その憧れの「女」を楽しめないなんて勿体ないのではないか。
■「女子」でもない「女性」でもない、壇蜜という「女」
最近、女性誌のメイク特集に、壇蜜が引っ張りだこだ。モデルやアイドルが特集されるのがほとんどのメイク特集で、セクシーグラビア系である壇蜜の存在は異色だ。女性たちにも支持されている壇蜜の魅力は、若く見せようとせず、変化(成熟)を受け入れた「大人の女」を体現しているところにあるのではないか。
彼女の魅力は、子どもでは出せない大人の表情・身体・色気だ。何も考えずに恍惚の表情を浮かべているようで、物事の深淵をのぞいているかのような不思議な、それでいて記憶に残る佇まいが印象的だ。内面的な複雑さが魅力となっているがゆえに、メイクで壇蜜顔になるのは難しい。メイクのハウツーは、付け足していくことで憧れの顔に似せさせていくことだが、彼女はもともとの顔のつくりが薄い和風顔だけに、メイクで盛って顔を似せるのは不可能に近い。ほぼ無理だといっていい。
一重や奥二重の小さい目をアイプチでぱっちり二重にし、付けまつ毛を付け、アイシャドーでがっつりグラデーションを付けるという、「盛っていく」ドーリー風メイクがもてはやされていたが、ここにきて「盛らない」自分の素材を受け入れるメイクが、壇蜜ブームを起点に大人の女性の間で見直されていくのかもしれない。
■若さを失うことは劣化ではない
女子から女性へと世の中の潮流が変わりつつあり、世の女性たちも無意識的に「大人の女」へシフトしているのが現在だと感じる。その流れの中にあって、私たち大人にできることは、一歩引いた目で自分を見て、年とともに変わっていく自分の変化を楽しみ、愛することだ。自分でない誰かになろうとするのではなく、変化していく自分をある程度受け入れ、諦める。「諦める」というと、願いが叶わず、いやいや思いを断ち切るという意味で使われているが、もともとは仏教用語で、ものごとの道理・真理を明らかにするという意味だったという。
命あるもの全てが朽ち、いずれ死を迎えるという逃れられない道理を理解し、自分の変化を受け入れ引き受けるということ。そして失った外見の若さと引き換えに、豊かになった内面を楽しむ。まさに大人じゃないとできない芸当だ。若さにこだわり、自分を「女子」というカテゴリーに無理に入れるでもなく自然に。年を重ねていくことが、劣化ではなく旨みや円熟味に変わるような「味わいのある」女になるために。
恩田雅世(おんだ・まさよ)
コスメティックプランナー。数社の化粧品メーカーで化粧品の企画・開発に携わり独立。現在、フリーランスとして「ベルサイユのばらコスメ」開発プロジェクトの他、様々な化粧品の企画プロデュースに携わっている。コスメと女性心理に関する記事についての執筆も行っている。