小ネタのジャンク感で、超能力描写の限界を突破した『SPEC』の発明
過剰な設定や、くだらないギャグも含めて、『SPEC』の本質は、とにかく見ている側を次から次にびっくりさせてやろうという「お化け屋敷」的なものだろう。そう考えた時に、やはり最大の肝となるのは、作中に登場する超能力の見せ方だ。
■描写の限界に気付かせない手腕
これに関しては、時間を止めるニノマエの力や、他人の身体に憑依する男との戦いや、人の心を読むサトリ(真野恵里菜)の描写は、見るべきものがあったといえる。逆に念動力等の、物理的なアクション描写は、いかにもCGといった感じで、見ていられなかった。特殊部隊が銃撃戦で戦うようなアクション場面でもそうなのだが、海外ドラマやハリウッド映画、あるいは日本のマンガやアニメと較べると、途端にチープなものに見えてしまうのだ。
『ジョジョの奇妙な冒険』(集英社)のような日本のマンガや、アニメでは定番化している超能力バトルモノのテイストを、どれだけドラマならではの映像として取り込めるかが『SPEC』が成功するかどうかのポイントだったと言えるが、その結果、テレビドラマの限界にぶちあたっているといえる。
日本のテレビドラマは、学校や家庭といった、ある程度、視聴者が慣れ親しんだ日常的な空間に根ざしたストーリーならリアリティが保てるが、非日常空間を演出しようとすると、途端にチープなものになってしまう。『SPEC』は、そこを正面突破するのではなく、真面目にやったらチープに見えてしまう超能力バトルを誤魔化すために、堤幸彦独特のくだらないギャグや小ネタといった別のチープさを混ぜ込むことで、ギリギリのところでドラマを偽装している。
例えば、今回の『SPEC~零~』に登場した、家族の敵をとろうと殺人に手を染める、車椅子の女子高生・上野真帆(川嶋海荷)の外見が、『スケバン刑事』(フジテレビ系)のパロディになっていて、ご丁寧にヨーヨーまで披露する。普通にやればチープにしかならない題材を、ジャンクなバラエティ番組のようにすることで、何とか成立させているのだ。
こういった、「ふざけてますよ」というポーズをとることで、シリアスな警察ドラマや超能力バトルが描けないことを隠ぺいして、小ネタだらけのテレビ的な見世物小屋に作り上げるのは、映像の力を過信していない堤幸彦だからこそ可能な、肉を切らせて骨を断つ手法だと言えよう。
(成馬零一)