潔癖症な現代人に恋愛のみっともない美しさを提示する『美しい心臓』
終電間際の駅の改札口で別れを惜しみ合っているカップルや、今が幸せの絶頂とばかりに戯れる学生カップル――。恋愛に溺れきっている人を視界の端に捉えた時の、言い得ぬ感情の正体はいったいなんなのだろう。恋愛小説や映画を見れば溺れるような恋愛に憧れるのに、現実の恋愛に浸って幸せそうな人々は非難めいた目で見てしまう。『美しい心臓』(小手鞠るい、新潮社)は、おそらく、そんな人にとっての“美しくない恋愛”が描かれた小説だ。
主人公は、暴力を振るう夫から離れ、不動産の事務をしながら妻子ある男の愛人として、静かに暮らす女。恐らく30すぎだが、名前も与えられず、美しいのかブスなのかもいまいちわからない。本作は、主人公が既に終わった恋愛を思い出すような筆致で描かれていく。
主人公の恋人は、仕事の関係で出会った40代の小さな企業の社長。口はうまいが、大事なことは関西弁でうまくはぐらかす中年男に、なぜ主人公が強く惹かれたのか、具体的には描かれない。その男が主人公を求めた理由もはっきりとはわからず、恋愛ドラマによくあるような、2人が付き合う前の駆け引きや葛藤の描写もほとんど見られない。
恋愛に溺れた理由の代わりに、主人公が反芻するのは、ひたすらお互いに求め合った幸福な時間だ。お互いに没入し合うことでしか見えない、狭い視界の中で生まれる快楽が執拗なほど繰り返される。代わりの利かないコミュニケーション。セックスも含めて、飛び込んだ当事者でないとわからない交歓が、お互いの関係を深く繋いでいる。
たった数週間、海外で恋人と一緒に過ごすためだけに、苦労して得た職場をあっさり捨てたり、好き過ぎてしばしば相手の死を願ってしまうような関係は、現実的に見れば異様で、幸福とは言いにくい。ひたすら恋人の言うことを受け入れ、自ら望んで“都合のいい女”であり続ける主人公は、まるで読者からの共感を拒むようにも見える。『美しい心臓』は、そんな恋愛の気持ち悪さを示しつつも、同時にそこには、第三者からいくら馬鹿にされても代え難いほどの、密度の濃い時間も描きだす。他人の恋愛から漏れてくる気持ち悪さに厳しい人々には見えない、みっともないけど美しい、美しいけどみっともない、そんな恋愛の一面を浮き彫りにしている。
溺れるような恋愛がしたいと思いながら、その機会に一歩を踏み出さない人の多くは、自分が恋愛で「みっともなく」なることを避けようとしているように見える。恋愛は1対1の関係のはずなのに、頭の中の他人の「あんなの格好悪い」が聞こえてくる。自分の日常をSNSを通じて「見せる」時代、私たちは自意識過剰といえるほどに自分自身を客観視する癖がついているのかもしれない。ただ、主人公が“どんな人も100年後にはほとんど存在しない”というように、人の恋愛の愚かさををバカにする人も、愚かな恋愛を他人から笑われる人も、その人生の終わりに大差はない。他人を笑いながら、全員から承認されるような理想の恋愛を待っているうちに、人生はすぐ終わってしまうかもしれないのだ。
(保田夏子)