銀幕スターとの生活で膨らむ優越感……「高島家長男殺害」の少女
■お手伝いではなく「業界人」という過剰な自負
美恵は昭和22年新潟県佐渡島に半農半商の両親、姉3人家族の末っ子として生まれた。中学時代、成績は普通で特に目立った存在ではなかったというが、それでも「勝ち気」「世話好き」「ハッキリものを言う」などの周囲の証言が存在する。昭和38年、中学卒業と同時に美恵は集団就職で上京、都下の工場で工員として働き始めた。しかし都内にあった工場が千葉に移転するのに伴い3カ月で退職、直後に知人のツテや高島家の後援会関係の口添えで、昭和38年7月に高島家のお手伝いとして住み込みで働くことになる。この時点で高島家のお手伝いさんは彼女1人だけだった。
その生活は美恵にとって“夢のような”世界だったようだ。姉には「夫妻にとってもかわいがられている」「毎日の生活が夢のようで楽しくて仕方ない」と熱く語り、友人に対しても、芸能界のうわさ話を織り交ぜながら、有名スターの家庭で信用され重要な役割を任せられていることなどを、自負と誇りを滲ませて手紙を書いた。
故郷でも、美恵は異例の出世と目されていた。美恵の“スターとの生活”は格好のうわさとなっていく。そんな中、美恵は次第に有頂天になっていった。当時、花代夫人は妊娠中だったこともあり、美恵は家事だけでなく忠夫の身の回りの世話などもするようになる。家には高島夫妻の“有名な友人たち”も訪れる。高島家を仕切り、信頼されている自分。それは美恵にとって目くるめくような生活だった。
昭和39年6月には、これまで以上の幸運が訪れる。芸術座での公演に出演する忠夫の“付き人”になったのだ。付き人はお手伝いよりも大きなランクアップだ。美恵は毎日のように芸術座の楽屋に通い、忠夫の世話を焼いた。殺到するファンを捌くまでになった。忠夫からも褒められ“お手伝い”というより今で言う“業界人”といった自負、誇りさえ生じていった。この間、次第に美恵は周囲に横柄な態度を取るようにもなっていく。江利チエミの家に電話をして「私、高島のお手伝いです。チエミさんのファンなのでよろしく」などと挨拶までしていた。お使いに行った近所の商店街でもスターや楽屋での出来事などを得意げに話してまわった。だが高島夫妻に対してだけ決して逆らうこともなく、まさに献身的に尽くしていたという。
そんな姿に忠夫は深く感謝し、芸術座公演が終わると慰労のため赤坂の高級レストランのバイキング料理を振舞った。さらに海外ブランドの時計とセーターを贈っている。もちろん花代夫人も美恵をかわいがっていたというが、美恵は「奥様は嫌い。ケチでがめつく、掃除もうるさい」などと話していたという。夫の忠夫に信頼されたことで、あるいは忠夫に対する淡い恋心さえ抱いていたのかもしれない。一種の勘違い、スター夫妻と自分の“等身視”といった感情が芽生えつつあることも見て取れる。
身近にスター夫妻がいる。夫妻は自分を信用してくれている。彼らと生活や仕事まで共有したことで、その地位をなんとしてでも守りたい。いや自分もまたスタッフといえども芸能界の有用な役割を担っているという、過分な思い込み、優越感が美恵の心を占めていったことは想像に難くない――しかし、佐渡から上京した17歳の女性がこうした勘違いをしてしまうのは無理からぬことでもあるのだが――。