“夫は犬と思えばいい”を支える、男性ご都合主義の狡猾さ
「病めるときも健やかなるときも、死が2人を分かつまで、愛し慈しみ貞節を守ることを」と誓い合いめでたく“夫婦”となった男女。しかし長年生活を続けていけば、あの日の誓いはどこへやら、会話が無い、セックスもない……。そのすれ違いがさらに顕著になるのは出産後。妻は子どもを媒介としてより強固な“家族”を作ろうとし、夫はその囲い込みから逃れようとする。
そんな問題を抱える夫婦に相互理解を促したのが、『夫は犬だと思えばいい。』(集英社)。著者である高濱正伸氏は小学校低学年を対象にした「花まる学習会」を設立し、講演会には追っかけママまで出るという、教育界で最も注目されている人物だ。高濱氏の教育理念である「子どもを“ひとりで飯が食える”大人に育てる」ために、親はどう子どもに接するべきか、さらに親自身がどういう心持ちであるべきなのか。多くの親子サンプルに触れてきた経験から、特に母親の心理状況に焦点を当てたのが、この「夫は犬」である。
学業不振、不登校、家庭内暴力……子どもの問題の原因は夫婦仲の悪さにあると指摘する高濱氏。育児の悩みを訴える母親に「(相談は)ぜひご夫婦で来て下さい」と言うと、「無理だと思います。どうせ私の話なんて聞いてくれませんから」と答えるという。この「話を聞いてくれない」というフレーズは、多くの母親が口にするらしい。ここに高濱氏は現代の母親たちの「孤独」を見る。
「家事や子育てを自分なりにがんばっているのだけれど、評価してくれる人もいません。掃除して当たり前。洗濯して当たり前。PTAの活動をして当たり前。塾に子どもたちを送って、迎えて当たり前。これではお母さんたちが追い込まれるばかりです」
高濱氏いわく、母親たちは結論を求めて話をするのではない。求めるのは“共感”……ただ話を聞いてほしいだけ。しかし夫は話を聞かないばかりか、要領を得ずオチのない話をする妻を断罪しようとする。夫婦の間に立ちはだかるのは「異性の壁」。
「本当なら異性というのはまったく違うものなんだということを痛感してから結婚生活をスタートしなければいけないのに、そうしなかった。そこから先はお互いがイマジネーションで補う必要があるのに、そこに思い至っていない」
「好きで結婚したのだから分かり合えるはずだ」と思い込み、月日がたつにつれ「こんなハズでは……」だけが積み重なっていく。結果、その「異性の壁」を乗り越えることができず、妻は孤独に陥る。そこで高濱氏が解決法として提案するのが「夫は犬だと思えばいい」なのである。
「同じ人間だと思わない」という思考の切り替え。男とは「プライドが高い。忠誠心がある。理屈好き。子どもっぽい」生き物であるのだから、小さな子どもを育てるような感覚で、夫を“飼育”するべきと高濱氏は言う。「夫は犬」だと思い、優先的にエサを与え、ゴロゴロしていても文句を言わず、家族の前で褒めてあげる。夫が犬だと思い込めば一切の期待をすることもなく、夫に対して「どうして?」「なんで?」とイライラしないで済むと言うのだ。
高濱氏が促しているのは、発想の転換。だが本当に異性の壁の乗り越え方が、「夫は犬だと思えばいい」でいいのかという疑問が生じる。そこにあるのは“責任転嫁”なのではないか。某缶コーヒーの「男ですいません。」というCMに感じたような、「男はいつまでたっても大人になれないバカ野郎だからさっ!」という無邪気な同調圧力を、「夫は犬」にも感じてしまうのである。
「ほとんどそれだけで喜んで忠誠を誓うのですから、ラクなものでしょう」と高濱氏は言うが、ラクかラクじゃないかは問題ではない。この本が発売された時、女性側から少なからず嫌悪を示す意見が出ていたのは(まぁほかにもいろいろ理由はあるが)「どうして妻側女側だけに、いつも変化を求めるのか」ということではないか。いつもニコニコしている懐の深い妻に“いい子いい子”してほしい、なぜなら自分は男だから、男は変われないから――「夫は犬」の根底にある男性ご都合主義こそ、妻を母を“不安定に”させる一番の要因なのではないだろうか。そもそも「夫は犬」であるのなら、そこの家庭に「父親」はいない。やはり妻は子どもと夫犬を「孤独」に育てなければならないのである。
「結婚なんてそんなもんだよ」「夫なんて(妻なんて)そんなもんだ」この言葉を言ってしまえれば、どんなに楽なことか。夫婦の関係に悩むということは、相手をあきらめていないのだから。『夫は犬だと思えばいい。』は、皮肉にも夫婦問題には短絡的な解決方法がないことを、浮き彫りにしてしまったのではないだろうか。
(西澤千央)