帰省して気付く「親の老い」、それこそが親からの最後の「教育」
「連休、ふるさとに帰ってみると、おかんが『老いて』いた。」
親元から離れ、普段は自分のことで手いっぱいの身に刺さるような一文から始まる『おかんの昼ごはん』(山田ズーニー、河出書房新社)。本書は、Webサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」に掲載された著者のエッセイと、そこに寄せられた読者からのメールを通して、“親が老いること”などについて語られた一冊だ。
東京で働く著者が、ある時実家に帰省して見たものは、料理上手だったのに手の込んだ料理を作らなくなり、娘に指示を出してばかりで自分からは働かなくなった、母親の「老い」だった。
老いとは、シミやシワが増えたり、肉体が衰えたりすることだけを指すわけではない。老いが、集中力や忍耐力といった“脳の体力”も一緒に奪っていく。愚痴を言うようになり、簡単な昼ごはんを作るのにも時間が掛かり、自分との別れに寂しさを隠さず、名残を惜しんで追いかけてくる母親。まるで「人格が変わったかのようにも思える」親に苛立ち、時に悲しくなりつつも、その老いを受け入れていくようになる著者の心境の変化が、ありのままに綴られている。
著者と母親のエピソードや、その話を受けた読者からのさまざまな体験談から語られる、親の老いや死、介護の現実。特に本書で焦点を当てられているのは、老いによって変化する親子関係、少しずつ何かがそぎ落とされていく親に子が抱いてしまう、正直な戸惑いや動揺だ。「認知症」や「要介護」といった分類に至らない、「老いる」としか言いようのない、親の小さな変化。子どもの頃、親が頼りがいのある存在だった人ほど、老いの兆しに不安を覚え、動揺し苛立ったりもする。
年齢も事情もそれぞれまったく異なる読者の体験談がいくつも語られることで、たとえ経済的に独立しても、日常生活では親を必要としていなくても、精神的に親離れしているとは限らないことに気付かされる。
特に、就学・就職で若い頃に親元を離れた人々にとっては、「若くて頼れる親」の記憶の方が、圧倒的に大きい。子どもの頃の「親」のイメージを、大人になっても無意識に期待していることに気付かずに、親元から離れた場所で自立した気になっている“子どもたち”。もし、会う度に小さくなる親の姿にうろたえたり、愚痴や言い訳が増えたことにイライラするなら、精神的にはまだまだ「親の子ども」だ。恐らく、親が生きていたとしても、「何でも自分よりできる親」は存在しないかもしれないことを受け入れられた時、親離れが始まるのだ。
著者は、「多くの人が笑うと思う」と言いつつも、冒頭のエピソードを経て、「私の青春は終わった」と続ける。親が年を取ることを本当の意味で受け入れることは、寂しいかもしれないが、一つ成熟した視点を手に入れることでもある。自分も年を取り、必ず行き止まりになる道を、いつか衰えていく容色・体力・知力で前に進むしかない。そんな覚悟を持って、自分は何を取捨選択して生きていくのか――。
「子にとって親の『老い』や『死』は、親から受ける、最後の『教育』なんだ」という言葉が示す通り、親の老いを受け入れて逃げずに向き合った経験が、生きている限り逃げられない自分自身の老いに直面する時の、確かな手がかりになるのだろう。
(保田夏子)