女は矮小化した? 常識の枠を飛び越えた岡本かの子らの人生を見つめ直す
同性の恋人とのセックスや年下の男との同棲宣言を、自ら編集する雑誌「青鞜」に発表し世間から大バッシングに遭った、平塚らいてう。痔の手術をした病院で会った美青年医師に惚れ、夫を使って、愛人として家に連れ帰った作家・岡本かの子。「結婚しながら別の男に走る」を、人生で2度繰り返した伊藤野枝――。
斜め読みすると、一見、偉人のスキャンダラスな言動を取り上げて面白がる本のようにも見える『烈(はげ)しい生と美しい死を』(瀬戸内寂聴、新潮社)は、文字通り己の心の底から聞こえてくる欲望や理念に従い、烈しい人生を歩んだ女たちと、著者自身の人生を重ねてつづったエッセイ集だ。
これまで「事実に限りなく近い評伝小説」という形で、近代に生きた女性を取り上げてきた瀬戸内寂聴。『烈しい生と…』には、今まで著者が書いてきた人々の中から、約100年前の時代を動かした女性たちのエピソードや取材秘話が収められている。一編一編が短いので、今まで彼女の作品を読んでいない人にとっても、“寂聴入門編”として取っ付きやすい1冊になっている。
前半で取り上げられる女性の一人は、当時「夏目漱石と並んだ」と激賞された小説家・岡本かの子。彼女の男性関係は、当時の常識から大きく外れたものだった。
過去の放蕩ゆえに一時的に性的不能になった夫との、“性関係抜きの夫婦”。夫公認で同居する愛人。死のきっかけとなる脳充血を発症した時に一緒にいた、夫や愛人にも秘密だった若い男性。当時、女性の不倫には姦通罪が科された時代にもかかわらず、かの子には死ぬまで常に夫以外の恋人の存在がある。
この本で描かれる岡本かの子像は、決して聖人ではない。かといって、浮気を繰り返す男好きでもないし、「過去に遊びまくって、自分を傷つけた夫」へ復讐を果たそうとする女とも言い難い。かの子の愛人や長男・岡本太郎ら、著者が取材した関係者たちの語りによって浮かび上がるのは、自分のすべての欲望に正面から向き合い、自分に必要だと思うものであれば、非道徳的なことであっても正直に選び取ってきた女性像だ。彼女にとって、常識や一般的な善悪の基準は、二の次だったのだろう。
本書に登場する女性は皆、かの子と同じように、清濁もちあわせた生身の人間として描かれ、それぞれ型破りなエピソードが収められている。そして寂聴自身も、そんな彼女たちの人生に重ねるように、我が子を前夫から誘拐しようとしてやめたこと、女性の性を描いた小説でバッシングを受け、文学界から“干された”ことをつづる。だからこそ、烈しい生き方を選んできた女性を美化せず、かつ決して「安らかな眠り」とは言い難い彼女たちの死を、不当に貶めることなく描くことができるのだろう。
本書は最後に、著者が保育士やOLといった、現代に生きる若い女性5人を自宅に招いたときのエピソードで結ばれている。
今時の女性は、明るく「高校二年で付き合っている相手がいないと肩身が狭い」「結婚は三十までにはしたい」「子どもは絶対ほしい」と著者に話す。彼女らの言葉を通して著者が見るのは「結婚して子どもを産んで、多くの人から成功と思われて生きることが、幸せ」という人生観だ。
それは多分、大多数の女性が自然に持っている普通の感覚だ。だからこそ、かの子や著者のように、その感覚からはみ出す行動を起こすことは、現代でも結構しんどい。誰にも理解されないまま、人生を「失敗」と決め付けられて、笑われて終わるかもしれない。ほとんどの人は、否定されるくらいなら、欲望は表に出さない方が生きやすいと知っている。
90歳の著者は、そんな“賢い”価値観を持つ女性たちに、「今の若い者は……」とは言わない。そこには時代の流れや、個人の事情もある。でも、言わない代わりに、この本を出すことで「その生き方、本当に楽しい生き方?」と、私たちを優しく挑発している……のかもしれない。
(保田夏子)