岩館真理子『えんじぇる』の“察してちゃん主婦”に見る、結婚への絶望と希望
とおーいとおーい昔に、大好きだった少女マンガのことを覚えていますか。知らず知らずのうちに、あの頃の少女マンガが、大人になった私たちの価値観や行動に、影響を与えていることもあるのです。あの頃の少女たちと今の私たちはどうつながっているのか? 少女マンガを研究する慶應義塾大学の大串尚代先生と読み解いてみましょう!
<今回取り上げる作品>
岩館真理子『えんじぇる』/『週刊マーガレット』(集英社)掲載、1982年
トピタイトル「幸せだけど幸せじゃない」
「トピを開いてくださってありがとうございます。もうすぐ2歳になる娘がいる20代女性です。高校を卒業してすぐに見合いで夫と結婚し、4年になります。夫は商社に勤めている、いわゆるエリートサラリーマンです。夫は優しい人で、わがままも聞いてくれますし、私が不得意な家事についても文句ひとつ言いません。周りの人は、みんな幸せな結婚だと言ってくれます。でも……どこか満たされないんです。なんでこの人と一緒にいるんだろうって思って。先日思いあまって、娘を連れて家を出ました。これから離婚に向けて、話し合いをすることになると思いますが、どうすればこの心の穴が満たされるでしょうか」
「トピ主です。みなさん、ご意見ありがとうございました。厳しいご意見もすべて読んでいます。もう少し説明させてください(後出しですみません)。夫は20代後半です。私が高校を卒業して、すぐに結婚したのは、高校時代につきあっていた先輩に、ほかに恋人がいることがわかって、失恋してしまったからなんです。それで親に勧められるままお見合いをして、良さそうな人だなって思って、結婚したんです。結婚ってそういうものじゃないんですか? それから私は専業主婦じゃありません。高校時代から描いていたイラストでお仕事をもらえているので、なんとか生活はできます」
岩館真理子の『えんじぇる』(集英社)の主人公・天森スウが、もしも、かの有名な掲示板「発言小町」を知っていたら、多分こんなトピを立てて、手練れのコマッチャー(発言小町の愛読者たち)から、フルボッコにされていたと思います。『えんじぇる』は、まさに先の架空の相談が示すように、何の問題もない結婚生活から、娘をつれて飛び出したスウと、夫・周作が別居しているところから始まります。
スウは天然で自分のことしか考えないところがある女の子(結婚して子持ちではあるけど、22歳くらい――今の大学生と変わらない)。彼女は、「なんか良さそうな人だな」というくらいの感覚で結婚して、そのうち周作の優しさに惹かれていくのです。スウの夫である周作は、年も上で優しくて大人。スウのわがままは大目に見ているけれど、言うべき時はきちんと意見を言う人。でも、スウのような、「幸せだけど、なんとなく幸せじゃない」という漠然とした不満を汲んでほしい、“察してちゃん”が持つオトメゴコロには、鈍感な人なのです。恋人というより、お父さん的な存在である周作は、はっきりと「好きだ」と言ったことがない。自分ばかり周作さんに惹かれていくことが、つらくて耐えられないと思っています。
「それにやっぱり 生きていくなら…愛したり…愛されたりして暮らしたいわ」
このスウの台詞は、初めて『えんじぇる』を読んだ時から、ずっと私の心に残っていました。
『えんじぇる』は、私が岩館真理子を読んだ最初の作品でした。たしか小学校の高学年の頃だったと思いますが、なんだかそれまで知らなかった世界がそこに広がっていました。雑誌『なかよし』(講談社)のように、「片思い→両思い」という恋の既定路線物語を浴びるように読んでいたあの頃の私たちは、両思いのその先を知りませんでした。いわゆる「片思い」はしていましたが、「両思い」になることなど夢のまた夢だったわけで、しかも両思いになった後なにがあるのかなど、性的なことも含めて知るよしもないわけです。
しいていえば、その先には「結婚」があるのだろう、というぼんやりとした未来しか想像できない。例えば、子どもの頃見ていた『大きな森の小さな家』(NHK)シリーズのローラ・インガルス・ワイルダーもアルマンゾと結婚するし、『赤毛のアン』(新潮社)のアンだって、ギルバートと結婚するわけなのだから、片思い→両思い→結婚なのだと、うすらぼんやりと思っていたのです。周作さんみたいな、思いやり深く理解のある夫と出会ったスウは、なにが不満なのかなぁ、と私は思ったりしたものです。こんないい人と結婚したんだからいいじゃん、と。
し、しかし! 『えんじぇる』は「その先」にある何かを示していた少女マンガだったのです。結婚がゴールではない、どころか、恋愛にゴールはないんだっていう、実はとっても怖いこと。
今ならそんなことは、わかりすぎるほどわかります。何事にも、ゴールなんかない。仮に恋愛が実って結婚しても、その後にも問題は起こる。性格の不一致だとか、家事と仕事のバランスだとか、義実家からの干渉だとか、配偶者の不貞行為とか離婚とか。こういう相談で、「発言小町」が埋まっているのを見るだけで、そんなことが世の中にあふれていることがわかる。……というか、まあ、これ、実は離婚でもめた私自身のことでもあるのですけれど。
先ほども述べたように、基本的にスウは、“察してちゃん”の面倒くさい女の子。ちょっとしたことで心が不安定になるのですが、彼女の面倒くささは、恋愛の面倒くささをそのままモロに引き受けてしまっているからかもしれません。
そんなスウの「生きていくなら…愛したり愛されたりしたいのに どうしてあたしだけが愛してるの?」という小さな疑問。好きだから不安になるなんて、ありきたりすぎて、結婚して子どもまで産んでいる人の悩みではないかもしれないけれど、スルーできない問題。
最終的には、スウに振り回される周作が、あまりに優しくスウを理解し、予定調和的結末を迎えます。でも、少女マンガの中にこそ、こういう関係があってほしい。結婚という枠組みの中だけではない、いつもどこかで起こりうる小さくて切実な問題を描いた『えんじぇる』は、今でも時々読み返す作品です。
多分「発言小町」でスウがトピ立てをしていたら、きっと「子どももいるのに、甘えるな」とか「自分の身の程を知れ」といったレスがつくことでしょう。それでも、多くの人が「お気に入り」に登録して、どういう結末を迎えるのかを見守る中、トピ主であるスウは、あっけらかんと「夫と仲直りしました!」というレスをいれるのでしょう。妥協したり、折り合いをつけたりしながら生活しているけれども、やっぱり「愛したり愛されたり」する暮らしを求めているところが、私たちの心の中にあるのではないでしょうか。
大串尚代(おおぐし・ひさよ)
1971年生まれ。慶應義塾大学文学部准教授。専門はアメリカ文学。ポール・ボウルズ、リディア・マリア・チャイルドらを中心に、ジェンダーやセクシュアリティの問題に取り組む。現在は、19世紀アメリカ女性作家の宗教的な思想系譜を研究中。また、「永遠性」「関係性」をキーワードに、70年代以降の日本の少女マンガ研究も行う。