橋本環奈の『おむすび』ギャルからひもとく、「ふつうの女の子」から逸脱した存在の今昔
歴史エッセイスト・堀江宏樹氏が今期のNHK朝のテレビ小説『おむすび』を史実的に解説します。
目次
・『おむすび』製作サイドがギャル要素をうまくさばけていない
・1931年、辞典に「ギャール」が初登場
・富裕層の出身のハイカラガールと、モダンガールの違いは?
・「ギャル」の原風景は大正末~昭和初期に登場していた?
『おむすび』製作サイドがギャル要素をうまくさばけていない
10月から始まった新・朝ドラ『おむすび』。放送開始前にヒロイン・米田結を演じる橋本環奈さんの「ギャル」姿が公開された時のモヤモヤが、じわじわ本格的な違和感に変わりつつある読者も多いかもしれません。
たしかにあれは「ギャル」というより、ファッションに興味を持ちはじめたばかりの十代女子が、お小遣いが足りないから古着屋に通うようになり、自分が好きなものを全て「足し算」でコーデしてしまった何かであって、本質的に「ギャル」とはいえないような……。
放送開始3週目にして、往年のカリスマギャル「あゆ」こと米田歩の妹として、自身もついにギャル化した結。ドラマにはすでに物語の中心となるハギャレン(博多ギャル連合)のメンバーも登場してはいるものの、活動内容は結とパラパラの練習をしているだけ……。番組製作サイドが、「ギャル」という要素をうまくさばけていないといわざるをえない瞬間が多いような気もしています。
しかし「ギャル」とはどういう人々だったのでしょうか?
実は、この疑問に一言で答えられる人は日本のどこにも存在していないはずです。少なくとも筆者にはそう思えるのです。今回から誰にでもわかるようで、実は誰もはっきりとは知らないギャルの歴史について取り上げ、その本質について考えてみようと思います。
1931年、辞典に「ギャール」が初登場
「ギャル」という日本語が誕生したのは、一説に昭和初期のこと。昭和6年(1931年)、『常用モダン語辞典』(創造社)――これは『現代用語の基礎知識』的な書物だと思われますが、同書に「ギャール」の表記で登場したのが最初だといわれています。
英語の「ガール」を、揶揄するような響きの「ギャール」になっていることからもわかるように、その頃から「ギャル」とは、大多数の日本人の考える「ふつうの女の子」のイメージから逸脱し、白眼視されがちな存在であったということですね。また、文学作品や新聞報道などの活字で「ギャール」が実用されることはなく(あるいは少なく)、あくまで口語でしかなかったようです。
これは歴史エッセイストとしての筆者の考察にすぎないのですが、おそらく「ギャール」とは大正時代末=1920年代に日本社会に登場した「モダンガール(当時の正式な略称は「モガ」)」を茶化した呼び方ではないか、と。
ちなみに大正時代末以前、前クールの朝ドラ『虎に翼』でもヒロイン・猪爪寅子も社会の「ふつうの女の子」の人生から外れ、見合い結婚はせず、男子学生と並んで法律の勉強を始める異端の道を選択しましたが、これをドラマでは「地獄」と呼びました。
「モダンガール」は、若き日の寅子そして、寅子のモデルである実在の法律家・三淵嘉子さんのように「ふつうの女の子」であることに飽き足らず、何か新しい挑戦を始めた人々のことでもあります。しかし、ファッションや特徴的な言動によって、「ふつうの女の子」として生きるなんてイヤ! と訴える「だけ」女性たちのほうが、その大多数であったことは想像に難しくありません。
そしてそれこそが「モダンガール」の本質であったといえるでしょう。ちなみに1920年代の「モダンガール」登場以前も、たとえば女性による女性のための日本初の文芸誌「青鞜」を発刊し、「日本のフェミニズムの祖」とされる平塚らいてうなどは「ハイカラガール」と呼ばれ、「モダンガール」と区分されています。
富裕層の出身のハイカラガールと、モダンガールの違いは?
「ハイカラガール」と「モダンガール」との違いは時代もありますが、実家の経済力です。「ハイカラガール」は基本的に富裕層の出身で、お嬢様。「金は出すが口は出さない」主義のリッチで開明的な父親に援助されながら、自由を満喫、自由のために戦う――そんな女性の集団でした。
しかし彼女たちよりも後の世代の「モダンガール」の大半は、「ハイカラガール」たちがとぼしいながらも開拓した「職業婦人」という生き方を選択した、富裕層の出身者ではない若い女性たちです。東京生まれ、もしくは故郷から東京などの大都会に出てきて、何らかの仕事をして自活しているのですが、『虎に翼』でも描かれたように、コンスタントに稼げる専門職に女性がつくことは、寅子=三淵さんのような優秀な女性でさえ、戦後まで難しいという社会背景がありました。
結果として、実家の支援が期待できない「モダンガール」たちは、「キャフェー」の女給――これは現在でいうキャバ嬢やラウンジ嬢とは異なり、多少は文化的背景がある存在だったようですが、その手の夜職につくか、電話の交換手、工場の女給さん、タイピスト、会社の事務職に就くなどして自分の暮らしを立てるしか手段がなかったのです。職業選択の自由はかなり限定されたものでした。
「ギャル」の原風景は大正末~昭和初期、銀座に登場していた?
そういう「モダンガール」たちは、東京・銀座に集まる傾向がありました。戦後のギャルの聖地といえば渋谷でしたが、戦前の「ギャール」たちは、銀座に行かないと夜も眠れないほどだったそうな。そうした銀座に行きすぎて「銀座病」とさえ呼ばれた「ギャール」たちを集めた座談会が昭和6年(1931年)の「文学時代」という文芸誌の6月号で行われました。
「都会の魅惑 先端少女座談会」という記事タイトルも凄いですが、「先端少女」=「ギャール」でしょう。記事の中では、松竹に所属していた新進女優・龍田静枝が「私淋しいと銀座を歩きますから」と語り、水商売あがりの一般人女性・花井蘭子(同名の日活所属の映画女優がいるが同人か)に結婚までは処女を守る予定が、好きになった男とセックスしたら妊娠したので中絶し、男にも捨てられたので実家にいられなくなって大阪の実家を家出して東京にきたなどと語らせたりしているのです。
要するに、何らかの理由で「ふつうの女の子」ではいられなくなった若い女性たちが、目立つ格好で銀座をうろつき、同じようなファッションの仲間同士でたむろする……そういう「ギャル」の原風景ともいうべきものが日本に登場したのが、早くも大正末~昭和初期の東京・銀座なのでした。次回に続きます。