「もうお母さんの面倒は見きれない」――“親を捨てた”子どもの事情とは?
“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)
そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。
目次
・「なぜそこまで尽くす?」老いた親を介護する子の姿
・妹が母と同居してくれたら一挙両得
・もうお母さんの面倒は見きれない――“捨てられた”母
「なぜそこまで尽くす?」老いた親を介護する子の姿
親との確執を抱えながらも、老いた親を見捨てることができず、苦しい思いで介護をする子どもは少なくない。
このシリーズでも、認知症になった母を呼び寄せたものの、デイサービスに行かない日に母と二人でいるのが耐えられないという娘がいた。昔から娘を監視し、束縛していた母にどうしても優しくできないと、自分を責めている。同時に、これは修行だと思うとも。しなくてもいい修行なのではないかと思ったが、それも彼女の選択なのだ。
また、ある新聞で取り上げられていた娘は看護師をしているが、父の後妻に幼いころからひどい扱いを受けていた。しかし、担当した高齢の患者が亡くなったとき、子どもたちが「もっといろいろやってあげればよかった」と悔やむのを見ることが多く、自分も後悔したくないと継母の介護をしているという。
「なぜそこまで尽くす?」と思わせられる子どもがいる一方で、親と距離を取った――というより“親を捨てた”子どももいる。
母の強い束縛を忘れていたわけではない
稲田幸一さん(仮名・58)の妹、真貴子さん(仮名・55)はその一人だ。
真貴子さんは幼いころから、束縛の厳しい母に苦しめられてきた。「あなたは何もできないんだから」という母の言葉に縛られて、習い事も進学先も母の言うとおり。結婚するまで母の敷いたレールの上を走らされていたという。
真貴子さんは結婚後、実家から離れた土地に住むようになってようやく母と離れることができたた。ところが夫が40代で亡くなり、同居していた義父母を看取ると、婚家を出ざるを得なくなった。介護した義父母の遺産も家も真貴子さんのものにならなかったからだ。
真貴子さんの窮乏を見かねた稲田さんは、母が住むマンションで母の面倒を見つつ、一緒に暮らしてくれないかと声をかけた。そのマンションは、稲田さん所有のものだ。
稲田さんは遅い結婚をして、別の場所で暮らすようになっていたので、母は一人暮らしをしていたのだが、母が老いるにつれて様子が気にかかっていたのだ。だからまさに、渡りに船。
真貴子さんが高齢の母と暮らして、面倒を見てくれれば一挙両得だ。真貴子さんも、これからの生活に不安を覚えていたこともあり、稲田さんの提案を受け入れた。
もちろん、稲田さんも真貴子さんも、母の強い束縛を忘れていたわけではない。が、真貴子さんも50代だ。80代の母とは立場が逆転しているはずだ。昔のような関係には戻らないだろうと楽観視していたのかもしれない。
もうお母さんの面倒は見きれない――“捨てられた”母
ところが、老いたとはいえ、母はやはり母だった。真貴子さんが新しい土地に慣れ、仕事もはじめ、楽しそうに暮らしているのが面白くないらしい。
「母はまるで高校生の娘に対するように、妹の生活にいちいち口を出すんです。帰りが遅い、女が飲みに出かけるなんてとんでもない……。齢を取った分、昔より陰湿になっているようです。先日は、妹が職場の同僚と旅行に行ったのが許せなかったらしく、帰ってきた妹を締め出したんです」
真貴子さんから、「ドアにチェーンがかけられていて、何度インターホンを鳴らしても、電話をかけても開けてくれない」と助けを求める連絡が来て、発覚した。このときは、稲田さんが母をきつく叱ったことで何とか落ち着いたものの、母が何度も転んで骨折し、体の自由が利かなくなってくると、母のストレスはさらに高まり真貴子さんへの当たりも強くなった。
そして、とうとう真貴子さんは家を出た。「もうお母さんの面倒は見きれない」という言葉を残して。
真貴子さんは、東京で暮らしていた息子家族の近くに引っ越した。母と同じような関係になりたくないから同居はしないと言い、近くにアパートを借りたという。
“捨てられた”母は、稲田さんの自宅近くの老人ホームに入った。
「友達もいない土地のホームに入れられて、毎日のように『帰りたい』と言っていますが、自業自得です。とはいえ、ホームでもわがままぶりを発揮しているようですから、“捨てられた”ことはあまりこたえていないようですがね」
妹が母を捨てることができてよかったと稲田さんは思う。真貴子さんの本当の自立はこれからだ。真貴子さんが子どもから捨てられてしまわないように。
――後編は10月13日公開