雅子さまに仕えたベテラン女官が勇退――知られざる、女官によるスパルタ“お妃教育”とは?
30年来、雅子さまにお仕えしてきたベテラン女官の岡山いちさんが退職したと報じられました。女官と妃殿下の知られざる歴史にについて、歴史エッセイストの堀江宏樹さんに教えてもらいます!
※2020年8月1日公開の記事を再編集しています。
目次
・女性皇族に求められる役割の重圧とは?
・女官たちから事あるごとに「いじめられる」?
・勢津子妃、女官によってご成婚当日に失明の危機に
女性皇族に求められる役割の重圧とは?
――2020年はコロナ一色のまま、半年以上がたちました。昨年は改元という大きな節目があり、お祝いムードに湧いていたのに……。
堀江宏樹(以下、堀江) 新帝陛下が即位されてから1年と少しが経過しましたね。しかし、昔なら再改元の必要性が議論されはじめてもよいくらい、世間の空気は暗いですね。皇室の方々も、どうやって落ち込んでいる国民とかかわったらよいのかを、模索しているご様子。
――良い変化といえば、皇太子妃時代には心身の不調を訴えられ、あまり活動的ではなかった雅子さまも、最近はお元気そうに見えることでしょうか。
堀江 そうですね。思えば平成16(2004)年には、新帝陛下(当時・皇太子殿下)による、「人格否定発言」がありました。
「それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」というご発言です。その意図を背景からまとめると、「妃殿下にはとにかく“お世継ぎ”を期待したいから、その妨げになるかもしれない海外での公務は控えてください」と宮内庁から言われてしまっていたのが不快だ……ということではないか、と。
男女は平等であり、性別・立場にとらわれず、その人らしく生きられることは広く認められるべき……というのは、一般社会ではもはや「普通」のことです。
しかし、皇族としては、やはり男女の役割には大きな違いがあり、とくに女性に求められるべき役割、そしてその重圧は、一般社会の比ではないくらいに大変なものであろうことが、この「人格否定発言」からは推察されるのでした。
女官たちから事あるごとに「いじめられる」?
―――世間でも議論が起こりましたよね。平成の世でも、雅子さまの身にそういうことがあったわけですから、昔の妃殿下はもっと大変だったのでしょうか?
堀江 そうですねぇ。平成3年には、昭和天皇の弟君・秩父宮雍仁(ちちぶのみや・やすひと)親王の妃であられた「勢津子さま」という方の回想録『銀のボンボニエール』(主婦の友社、秩父宮勢津子)が刊行され、ベストセラーになりました。
読み物として大変面白いのですが、宮中に嫁いできた勢津子さまに対する女官たちや、宮中関係者の冷淡さが印象に残りました。私論ですが、とくに結婚当初、女官たちから妃殿下が事あるごとに「いじめられる」ことによって、妃殿下に宮中のシステムが効率的に叩き込まれるようになっているのかな、とさえ考えてしまったほど。
妃殿下も、そういうプレッシャーを跳ね返せる場合に限って、はじめて一人前になれるというハードな世界だったのかもしれない……とか。かつて雅子さまが苦しまれた宮内庁との軋轢の問題も、なんとなくですが根っこは同じような気にもなるのです。
―――現代は昔ながらのスパルタ女官こそいませんが、宮中の“圧”から解放されるわけもなく……。そもそも、妃殿下という上の立場の方に仕えているはずの女官が、どうして「主人」をいじめちゃうのですか?
堀江 女官は妃殿下より、宮中生活の先輩ですから。そして宮中は完全なタテ社会です。
宮中では一般社会とは異なる、独特の生活ルールが生活の中心となっています。ですから、それを熟知し、しきたりを守り、当然のようにそれで生きられていなければ、一人前の皇族とは呼べないのです。
女官も好きでいじめるのではないとは思いますよ。でも、なかなか傍目には厳しすぎるのでは、と思うところが、『銀のボンボニエール』にもちらほらと出てくるわけです。
勢津子妃、女官によってご成婚当日に失明の危機に
―――どんなスパルタ教育が書かれているのですか?
堀江 秩父宮雍仁親王と勢津子妃のご成婚当日、儀式途中から、女官による「最初が肝心」式の厳しい「お妃教育」が早くも施されていたことがわかります。
御成婚は明治35(1902)年6月のことで、大正天皇のときから皇室の新しい結婚式となった御所での「神前式」が踏襲されました。このとき、雍仁親王は26歳、勢津子さまは19歳になったばかりです。
勢津子さまは当時としては、かなりハイカラな上流家庭に育ちました。旧・会津藩主だった松平家のご令嬢です。しかし、家風が独特というか、お父上は爵位(子爵)を息子に譲り、自身は外交官として自活することをお選びになっていますね。勢津子さまも、このため旧大名家の姫としては異例なほど、自由に生きることができていたのです。
海外で外交官のお仕事をなさるお父上と共にアメリカ・ワシントンで思春期をすごし、当地の「フレンドスクール」を卒業してから帰国したばかり、という「帰国子女」でした。そして、お血筋は高貴ではあっても、ご身分自体は「平民」……。
―――いかにも宮中の古株女官から叩かれそうですね!
堀江 まさにそう。一般庶民でも、結婚式の衣装替えは大変ですけれど、当時の皇族妃ともなるとそれはもう……。
お二人のご成婚の日時は昭和3(1928)年9月28日でした。午前2時に起床、髪を「おすべらかし」に結い上げるところから、全てが始まります。深夜にいたるまでの怒涛のスケジュールの詳細は省きますが、印象的なのは勢津子妃がご自分を(ママゴトの)「人形のように扱われた」といっていることです。
例えば、おすべらかしに通称「十二単」の姿で儀式に出て、写真を撮りおえたら、当時の宮中でもっとも公式なドレスとされた「マント・ド・クール」に着替えねばなりません。着替える際には、髪も油で固めたおすべらかしのままではダメですから、油分をなんとベンジン液で拭き取るのです。
油絵を描いたことがある方なら知っているでしょうが、絵の具の拭き取りにも使う、異臭のする液体です。しかも大量にベンジンを使ったため、目の上にかぶせてあった布に次第に染み、目に入り込んで激痛が……。
―――わわわ、それは大変です。妃殿下をそんな目に遭わせた担当女官には、どんな処分が……。
堀江 詳細はわかりません。しかしご成婚当日に妃殿下が失明の危機に見舞われるって、ひどいですよね。「一時は完全に目の前が真っ暗になって何も見えなくなりました。この大事なときに視力が戻らなかったら」……と焦る勢津子妃ですが、なんとか視力も痛みも回復し、大至急で次のドレスに着替えるのです。
それでも担当者を責めることは何も書いていないのが、さすが勢津子妃、器の大きな女性でいらっしゃると思うのです。けれど、着替えはおろか、靴を履く時さえ、すべてを女官におまかせするのが妃殿下の「日常」であると気づいたことには、非常に落胆したとはっきり書いておられますね。
―――ご成婚当日、早くも妃殿下としての生活に落胆した勢津子妃ですが、秩父宮邸に帰った後も続く、女官の「洗礼」とは!? 次回に続きます。