コラム
【堀江宏樹の歴史の窓から】

フジ『大奥』、家治を「バカ殿」呼ばわりした人物は? ドラマのようではなかった史実を解説

2024/03/04 15:00
堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)
家治もこんな笑顔になれるといいね(写真:サイゾーウーマン)

今期放送中の『大奥』(フジテレビ系)。小芝風花がヒロインを務め、KAT-TUN・亀梨和也やSnow Man・宮舘涼太も出演することで話題を集めていたものの、いざ始まると評判は芳しくない様子。同シリーズの熱心なファンである歴史エッセイスト・堀江宏樹氏が、今作の残念なポイントを史実的背景から解説する。

目次

徳川家とオランダ人の交流は本当?
家治がオランダ商館員から取り寄せたもの
ティツィングはドラマのような親日家とはいえない

徳川家とオランダ人の交流は本当?

 『大奥』第5話の後半部では、徳川家治や、大奥の女性たちがオランダ商館長イサーク・ティツィングと謁見する様子が描かれました。ドラマの家治がオランダ語をしゃべりだしたのには驚かされましたが、大奥に招き入れられたティツィングに、側室のお佐保が琴を聴かせたり、女中たちが総出で歓待していた様子は印象的でしたね。こういうことは本当にあったのでしょうか?

 答えは、おおむね「YES」です。

 家治だけでなく、多くの歴代徳川将軍が、オランダ商館員の訪問を楽しみにしていました。ただ、将軍とオランダ人たちの対面は、身分の都合上、御簾越しになるのが常で、さらに通詞(つうじ)とよばれた通訳が両者の対話を取り仕切ります。それゆえに、ドラマのように将軍がじきじきにオランダ語で対話というようなことはなかったはずです。

 ご存じのように、江戸時代の日本は鎖国していましたが、西洋諸国では唯一、オランダとは文化的交流がありました。しかし、そのオランダ人もふだんは長崎の外国人居住地域だった出島に押し込められるようにして暮らさねばなりません。それでも4~5年に1回(頻度は時期によって異なる)、オランダ商館長以下、医師や職員たち何名かが江戸城を訪ね、将軍や幕府の重役たちに珍しい異国の手土産をわたし、対話する機会が設けられていました。

 将軍だけでなく、江戸幕府の要人たちも熱心にオランダ人たちと質疑応答を繰り広げたことが知られています。つまり、鎖国はしていても、江戸城上層部は外国文化に対する興味関心を失っていなかったのです。

家治がオランダ商館員から取り寄せたもの

 すでに8代将軍・徳川吉宗の時代以降、宗教書以外の洋書を読むことも禁止ではなくなっていましたし、江戸の中心部にあたる日本橋には「長崎屋」とよばれるオランダから輸入された品物を扱う店があって、身分を問わず、多くの人々が出入りしていました。店頭では洋書も売られていましたが、庶民が買える代物ではありません。

 医師・杉田玄白は、後に自身で『解体新書』として翻訳・出版する『ターヘルアナトミア』の原著を3両で買いました。現代の貨幣価値でいえば15万円もしたことになります。ドラマで家光がどっさり積み上げた洋書を読んでいましたが、史実でああいうことをしようとしたのなら、100万円以上は見ておかねばならなかったでしょうか……。

 史実の家治が交流したオランダ人は、ティツィングだけではありません。彼の治世は26年間続いたので、オランダ商館員たちとは何度も対面機会がありましたし、後にお話しますが、オランダ商館を通じて海外から「お取り寄せ」を試みたこともありました。

 家治の祖父・吉宗も熱心にオランダ商館員と交流したことで知られ、御簾を上げ、彼らの顔を見つめながら、さまざまなジャンルのヨーロッパの科学知識を取り込もうと熱心に質問を繰り返しました。

 もちろん10代将軍・家治も西洋の文物に関心が深く、将軍に就任してすぐの宝暦11年(1761年)、オランダ商館を通じ、ヨーロッパの馬を輸入しようと熱心に働きかけたことがあります。もともとは家治の祖父の吉宗が洋馬の輸入を始めており、家治も江戸城内でも飼育されていた洋馬に興味をそそられていたようですね。

 ただ、オランダ商館はなかなかのワルで、家治から金を巻き上げておきながら、日本の在来馬よりも小さく貧弱なジャワ産の馬を「これが西洋の馬です」と偽って届けてきたこともあったのですが、家治は怒らず(おそらくは)洋書から得た知識を背景に、私が本当に欲しい馬にはこういう特徴があって……という要望を、オランダ語通詞を使いつつ、長崎のオランダ商館に詳細に伝えた記録があります。時期的にすでに「サラブレッド」という品種もイギリスでは誕生していたので、その知識も家治にはあったのかもしれません。

ティツィングはドラマのような親日家とはいえない

 安永4年(1775年)、カール・ペーター・ツュンベリーというオランダ商館勤めの医師によると、知識人として有名だったツュンベリーとの対話に興をそそられた家治が御簾の後ろから姿を現し、彼とは親しく交流したそうです。

 時期的にはツュンベリーの後に家治が対面したオランダ人が、ドラマにも出てきたティツィングなのですが、彼との対面時にもそれなりに会話は弾んだと思われます。しかし、史実のティツィングはプライドが高く、家治に拝謁する前に、二度も畳に這いつくばってお辞儀をさせられたことが大いに不満だったようです。

 ティツィングが帰国後に書いた回想録の中で、家治は「バカ殿」呼ばわりされているんですね。「将軍家治は、成長するにつれて子どもよりましな程度の理解力を持つようになった」とさえ書かれています。将棋の名手でもあった家治が「バカ」であったわけはないのですが、しゃべり方や声などが、ティツィングには幼く感じられたのでしょうか……。

 ティツィングは、5代将軍・徳川綱吉と御台所・鷹司信子がほぼ同時期に死んでいるのは、綱吉が信子の手で暗殺され、信子が自害したからだという怪しいうわさもなぜか知っており、それらも回想録にはまとめられています。たしかにこのうわさ自体は、その後も長く、徳川家の中では語り継がれたそうですが、実際には綱吉夫妻が同時期にはやり病で亡くなったにすぎません。

 また、家治が側室のお知保との間に授かった家基という男子が享年18歳(満16歳)の若さで亡くなった理由も、彼がまたがった西洋馬が暴走し、崖から馬ごと落ちて死んだからと書いています。こちらにも根拠はありません。しかし、鎖国している日本の情報は少ないため、ティツィングのいい加減な記述を、真実だと信じ込んだ人はヨーロッパ中にいたようですよ。

 幕末に、自分をオランダ人だと偽って来日したドイツ人医師・シーボルトも、ティツィングが書いた落馬説を本気で信じていたようです(シーボルト『日本交通貿易史』)。鎖国している日本からはクレームが入らないのをいいことに、捏造された情報を、ヨーロッパで広めてしまったティツィングは、ドラマのような親日家とはいえず、まっとうな人物でもなかったといえるでしょう。

堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『眠れなくなるほど怖い世界史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

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最終更新:2024/03/06 15:09
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