『らんまん』神木演じる主人公、“性のエネルギー”が破天荒! 女遊びで数百万円放蕩、セクハラで大問題に
天才植物学者・牧野富太郎をモデルにしたNHKの連続テレビ小説『らんまん』。そんな牧野について「私生活はクズの中のクズ。横綱級のクズだったといえるでしょう」と語るのは、歴史エッセイストの堀江宏樹氏。同氏が朝ドラ『らんまん』主人公の史実をひもとく!
天才なのかもしれないけれど、凄まじい浪費家で、借金だらけの植物学者・牧野富太郎。彼の尻拭いをし続けたのは、牧野より11歳年下の妻・寿衛(すえ)でした。
十代半ばで彼の妻となった寿衛も、40代後半を迎えると、あいかわらず身勝手な夫の世話だけでなく、成長してきた7人の子どもたちの学費捻出に苦労を感じるようになります。
そんな寿衛が金策のため、宴会場つきのラブホテルに相当する「待合」といわれる営業形態のお店を、東京・渋谷の荒木山(現在の円山町)で経営していたことは有名です。牧野は回想録の中で、寿衛だけが家族を置いて家を出て、渋谷で待合を経営していたといっているようですが、実情としては渋谷の色街に牧野一家全員が越したというのに近かったのではないか、と推察されます。
現在の文京区で駄菓子屋の経営をしていたとされる寿衛ですが、知人女性の勧めもあって、大正15年(1926年)、荒木山に古い一軒家を借り、待合兼料理屋を開業しました。渋谷・荒木山は明治後半に発展しはじめたばかりの新興の色街ゆえに、一般家庭が暮らす住宅もまだまだ混在していたようです。
牧野の回想によると、開業費用はわずか3円だったそうですが(現在の数万円程度)、当時の貨幣価値に照らし合わせても、あまりに安すぎるため、寿衛が牧野には嘘の数字を教え、夫に有り金を奪われることに備えた結果かもしれません。
寿衛は最初から経営に挑戦したというより、渋谷の待合の女中としてパートタイム勤務した結果、なかなか稼げると踏んだ末の決断だったようですが、「いまむら」開業時は、すでに53歳になっていました(ちなみに牧野は64歳)。
これ以前にも、牧野家の財政問題には紆余(うよ)曲折があったのですが、ここで少し、振り返ってみましょう。
数億円の借金を抱えても女遊びにセクハラ?
明治26年(1893年)、31歳の牧野は、東大に助手として採用されることになりました。後には講師に昇格しています。しかし、稼ぎといえるほどの稼ぎはないまま、例によって莫大な私費を投じた研究生活だけでなく、植物関係のフィールドワークに出かける時も、一流仕立ての洋服に身を包み、一等車に乗って、一流旅館に泊まるという奇癖のせいで、借金は膨れ上がる一方でした。
その頃、岩崎弥之助(三菱の創業者・岩崎弥太郎の弟)が、土佐(現在の高知県)を同郷とする者同士のよしみということで、牧野の数千円(現在の数千万円)の借金を肩代わりしてくれたそうです。しかし、それからわずか10年足らずの大正初期には借金はふたたび膨れ上がり、今度は以前の約10倍、数万円(=数億円)にも達していたとか。「東大の先生」という牧野の肩書が、それだけの巨額の借金を可能にしていたことにも驚きを禁じえませんが……。
こうして首が完全に回らなくなった50代の牧野ですが、岩崎弥之助に次ぐ、救いの神が現れました。当時25歳で、学生だったにもかかわらず、莫大な遺産を継承した池長孟(いけなが・たけし)という神戸在住の篤志家が支援を申し出てくれたので、牧野とその家族の生命は首の皮一枚で繋がりました。この話は新聞でも大きく報道され、美談として世間の話題となっています。
このような幸運が牧野の人生にはなぜか何度も訪れたそうですが、今回も、現在の貨幣価値で数億円もの借金が帳消しになって気が大きくなった牧野は、福原地区の安女郎屋・長谷川楼にいりびたり、「数百円(=数百万円)」を女遊びで一気に蕩尽してしまいました。
さらに池長所有の別荘に滞在している時、そこで彼の世話をするメイドにセクハラをして大問題となり、池長孟からは見捨てられるという実に不名誉な結末となりました。当時、牧野は50代後半ですが、自分の年齢よりも半分くらいの若者から正論で殴られるような説教をされても、何一つ言い返せなかったそうですね。
東大関係者の間で広がった牧野の怪情報とは
結局、こんなダメ人間の夫がいるからこそ、寿衛も40代後半くらいから、駄菓子屋の女将、新興色街の渋谷・荒木山の待合の女中、そして同地で待合を経営する女将として、夫以上に稼がざるをえなくなったのでした。大勢いる子どもたちの世話も大変だったでしょうが、一般的には更年期といわれる体調不良の時期ですから、つらかったと思いますよ。しかし、寿衛の待合開業は、他人に支えられっぱなしの牧野の人生における、3度目の幸運の到来となりました。
荒木山の待合「いまむら」は評判で、一流とまではいえないまでも、二流くらいの待合として人気を取るようになりました。待合は料亭とは異なり、基本的に調理設備はなく、料理は他店から取り寄せなのですが、「いまむら」は、古い民家を利用した店だったので、台所もついていたのでしょう。小料理も提供していたそうです。
しかし、待合には宿泊用の布団が用意されているのが常でした。荒木山には評判のよい銭湯がありましたし、近くの飲み屋で酔っ払った男たちが枕営業の芸者たちを連れて来店したり、人目を避けたカップルが訪れたり……そういう客が「いまむら」にも多かったのではないかと推察されます。そして、その中には、どうやら東大の学生や教授たちもいたようですね。
一流の待合に近づけば近づくほど、政治家たちが談合する場所として利用もされたそうです。「料亭政治」の少しカジュアルなバージョンが「待合政治」でしたが、二流の待合「いまむら」では毎晩、何が繰り広げられていたのやら……。しかし、「牧野が荒木山の待合に出入りしている」という怪情報は徐々に東大関係者の間で広がっていったのです。
待合の経営は想像以上に儲かりました。純利益が毎月60円(=60万円)はあったそうですし、チップを受け取ることもできたので、寿衛はかなり貯蓄できたようです。しかし、水商売で失敗したのならともかく、稼げてしまっていたので、ついに東大からクレームが入りました。ある意味、嫉妬なのですが、「東大関係者・牧野富太郎の妻が何をして稼いでいようが、文句は挟めない」といいながらも、やんわり批判されてしまった寿衛と牧野は、「いまむら」を畳むことにしました。
牧野富太郎は欲求に忠実だった
不幸中の幸いだったのは、「いまむら」の営業権を知り合いに譲渡するという形態での閉業で、この時に得られた現金によって、寿衛は生活力のない牧野と、子どもたちのために現在の練馬区・東大泉に700坪もの土地を買い取り、家屋も新築することができたそうです。
無理を重ねた結果、昭和3年(1928年)、寿衛は55歳の若さで、亡くなりました。死因は公表されていませんが、子宮がんだったようです。牧野は「恋女房」だった寿衛の名前を自身で発見した新種の笹に付けて悼んだといいます。
その後は90歳ごろまでは60代の若さに見え、彼女もいたらしい牧野ですが、さすがに最晩年にあたる94、5歳にもなると自慢の足腰も弱りがちとなり、寝ている時間が増えていきました。
牧野が、壁に貼られた寿衛の写真を黙って見つめている姿が家族に目撃される一方、亡くなる数カ月前まで、牧野が訪問看護婦を「美しい」といって口説く姿が同居の孫にも目撃されており、最後の最後まで、牧野富太郎は自身の欲求に忠実でした。
〈性(せい)の力の尽きたる人は/呼吸(いき)をしている/死んだ人〉。
牧野が残した川柳を見れば、植物学者としての牧野の偉業も、そして一人の男としての破天荒な私生活も、すべては彼に備わった膨大な性のエネルギーを駆使した結果なのかもしれません。