『だが、情熱はある』高橋海人と森本慎太郎の漫才はなぜ評価される? 元芸人ライターが徹底解剖
オードリー・若林正恭と南海キャンディーズ・山里亮太の半生を描く連続ドラマ『だが、情熱はある』(日本テレビ系)。同作は、若林の『完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込』(角川文庫)『ナナメの夕暮れ』(文春文庫)と、山里の『天才はあきらめた』(朝日文庫)というそれぞれのエッセイを元に作られたほぼ実話のドラマだ。
同作では、少しばかりねじ曲がった青春を歩んだ2人が、なぜお笑い芸人になり、いかにしてブレークし、どのような苦悩と戦ってきたのか――そして、6月25日放送の最終回では、芸能界で出会った2人が結成したユニットコンビ「たりないふたり」の解散までが描かれるという。
ドラマスタート時から、主演を務める高橋海人(King & Prince)と森本慎太郎(SixTONES)それぞれの“モノマネ演技”のクオリティの高さが、視聴者の間で話題になっていた。しかし、終盤になるにつれ、SNS上では、演技だけではなく漫才の腕そのものが注目され出している。オードリーと南海キャンディーズの漫才を「完コピしている」と絶賛されているのだ。
第10話放送後、YouTube「日テレドラマ公式チャンネル」で、「『だが、情熱はある』×『たりないふたり』ウォッチパーティ」と題した特別生配信が行われた。そこで、作中、ヒップホップユニット「クリー・ピーナッツ」(モデルはCreepy Nuts)を演じるお笑いコンビ・かが屋の加賀翔は、「(作中の)漫才のクオリティが高すぎて漫才シーンが増えた」というまことしやかにささやかれるウワサ話を持ち出している。
今回、高橋と森本それぞれの漫才の実力について、元お笑い芸人ライター・さわだ氏に解説してもらった。
ボケよりもツッコミのほうが難しい――高橋海人と森本慎太郎が越えた最初のハードル
「漫才は間だ」
という言葉を聞いたことがあると思う。元お笑い芸人の筆者は、この言葉の真の意味を理解できる境地に達していなかったが、これはお客さんありきの言葉のように思える。その日の客、前の芸人のネタ、それらを加味した上でテンポや間を合わせていく。そこに間の真の難しさがあるのだ。
そういう意味では、ドラマや映画内できっちりと仕上げた漫才を披露することは、優れた役者ならそれほど難しいことではない。現にお笑いを扱ったほかの作品でも、さまざまな役者たちがクオリティの高い漫才を披露している。では、なぜこうも高橋と森本の漫才が評価されるのだろうか?
誤解を恐れず言わせてもらうと、漫才のボケはそれほど難しい役回りではない。台本さえ良ければ、ヘタでも一定の面白さは担保される。ボケの場合は、ヘタさすらも笑いになり得るからだ。
しかし、ツッコミは違う。どれだけ台本が良くてもボケの表現力が高かったとしても、ツッコミが棒読みだったり、先述した間を外してしまうだけで、見れたものではなくなってしまうのだ。ツッコミはお客さんを“共感”させる役割であるため、ツッコミに安心感がないと笑いづらくなってしまう。そのため『火花』(Netflix)などでは、ツッコミにプロの芸人を据えることで漫才のクオリティを担保していた。
オードリーと南海キャンディーズのツッコミ担当である若林と山里を演じている高橋と森本は、ツッコミとして最初のハードルを越えているといえる。表情の豊かさやどっしりと構えた包容力から、視聴者に安心感を与えることに成功しており、「この人の話なら受け入れることができる」と思わせてくれる。これはつまり、見る者を“共感”させるだけの素地があるということだ。