ここに座っていた人がもういない……突然親を亡くした女性の“淋しさ”とは?
“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)
そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。
宮坂志満さん(仮名・60)は自宅で父が急死し、数時間に及ぶ事情聴取と家宅捜索を受けた。検死が終わった父の遺体は“モノ”として扱われていたように感じ、父の具合が悪いとわかったときに救急車を呼ぶべきだったと自分を責めた。
父とは同志のように生きてきた
さて、葬儀が終わり、死後の事務手続きに追われていたときのことだ。水道や電気の領収書などはないかと引き出しを開けていた宮坂さんは、金庫のカギがあるのを発見した。
「引き出しの上に、普通に入っていました。え? 警察はこれを見逃したの? と驚きました。あれだけしつこく事情聴取をして、家じゅう大捜索をして、検死までして、それでも保険金目当ての殺人などが見逃されるって、どれだけ巧妙なんだろうと、妙なところで感心していましたが、金庫のカギを見逃すくらいだから、警察も意外とザルなのかもしれませんね」
金庫を開けてみた。いくつか契約していた保険証券はあったが、遺言書など父が書き残したものはなかった。これから相続手続きで、長く音信不通だった妹に連絡を取る必要が出てくる。宮坂さんは、葬儀にも出てこなかった妹とのやりとりを考えると気が重い。孤立無援の心細さが襲ってくる。体を強風が吹き抜け、足をすくわれるようだ。
「妹が親とぶつかり家を出てから、精神的に不安定になった母が心配で、20年ほど前に両親をこちらに呼び寄せました。父はまだ60代で、田舎を離れたくないと抵抗していましたが、最終的に母とともに知り合いもいないこの土地に来てくれました。それからは、父と二人、同志のようにして生きてきたんです。もちろん常に意見が合ったわけではありませんでしたし、腹が立ったこともありました。父も同じだったでしょう。それでも父がいなくなって、これまで父の存在に支えられていたことがわかったんです」
もう父のために元気でいる必要もない
昨日まで、ここに座っていた人が今日はもういない。いつものように座椅子に座り、夕方には酒を飲んでいるんじゃないかと思う。暗くなると、父の家に入るのが怖い。父の不在を思い知らされるのが嫌で、行けなくなる。
母を失ったとき、大きな痛手を受けなかったのは、父がいてくれたからだと思う。父とはいつもふるさとの言葉で話していた。父がいたから、20代で離れたふるさとともつながっていられたのだと思う。もう自分にはふるさとがなくなってしまったという淋しさも押し寄せてくる。
毎年数回、里帰りをして旧友や親戚と会っていた父だったが、コロナ禍になってからは帰省するのをやめさせていた。理由はコロナだけではない。田舎では車がないと移動がむずかしい。帰省中、自分で車を運転してあちこちに出かける父を叔父が心配して、運転させないように言われていたのも帰省を止めていた大きな理由だったのだ。
そしてこの3年あまり、ふるさとに帰ることができないまま、逝かせたのを申し訳なく思う。それと同時に、事故を起こさずに済んだこと、事故を起こしていないか心配しなくて済むことにはホッとしている。きっと今ごろ父は自由になった体でふるさとに帰り、懐かしい人たちにあいさつしていると思う。
人はいつか死ぬ。十分わかっていたはずなのに、別れの覚悟ができないまま、突然いなくなった父。「ヨロヨロ」することなく、「ドタリ」と倒れ、誰の世話にもならず逝ってしまった。
「元気な人だったから、私のほうが先に病気になったり、死んでしまったりすることになったらどうしようとも思っていました。もう父のために元気でいなくてもいいんだ、と肩の荷が下りたようです」
そう微笑みながらも、父の死を受け入れるにはまだ時間がかかりそうだ。