虐待されても母親が大好き――不安と喜びを抱えながら介護をする女性
“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)
そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。
母・良江さん(仮名・70)から虐待を受けて育った黒沢美紀さん(仮名・45)。良江さんは長く統合失調症を患っていたが、体に合う薬が見つかり、おっとりとした女性に変わった。ただ、夫・昇二さん(仮名・75)から激しいDVを受けていたことも忘れてしまっている。今後は介護が必要になる可能性も高いと言われているし、昇二さんは脳梗塞のあと自宅で転倒、今も入院中だ。
どんなときも母のことが大好きだった
今、良江さんからはたまに電話がかかってくる。「良江さんとの会話は楽しい」と美紀さんは笑う。
「この前は、うちに遊びに来てくれました。2人でテレビを見て、おしゃべりして、一緒にお寿司を食べて。私の手作りプリンに『お店に出せるで』とおいしそうに食べてくれました。私と母はのんびりした性格なので、一緒にまったりした時間を過ごせてうれしかったです。もし母が病気にならなかったら、病気になったとしても、すぐに治療を受けられていたら、私の人生は変わっていたのかな、とふと思いました」
こんな穏やかな日にも終わりが来るのかと美紀さんは考える。良江さんが認知症になったとき、どこまで耐えてサポートできるのか不安を抱きながらも、それは今考えても仕方のないことだとも思う。
美紀さんは、良江さんのことが大好きなのだ。
「あまりにもつらい思いをさせられて『なんで私だけ……』と涙することはたくさんありました。でもどんなときも、お母さんのことが大好きでした。私が2歳になるまでの短い間だったけれど、母が病気になるまでは私のことを大切に育ててくれていたんだろうと思います。本当は母は暴力なんて振るいたくなかった。娘のことを愛したかったはず。病気に振り回される母にとって、自分を取り巻く世界は恐ろしいもので、それが怖くて暴力を振るっていたんでしょう」
それでも、わずかながらも良江さんが美紀さんに向けてくれた愛情があった。裁縫が得意で、浴衣やボストンバッグを作ってくれた。小学校の卒業旅行のために縫ってくれたそのバッグを持っていくと、友達からうらやましがられてうれしかったのを覚えている。
「当時は洗濯を干してくれなかったので、濡れた服で学校に行くしかなくてみじめでした。ただ、今思うと洗濯機さえ一生懸命回していたんでしょう。あんなことをされて、なんでだろうと思うくらい、母には愛情を持っています」
統合失調症だけでなく、知的障害と発達障害もある母。もうおばあちゃんなのに、5歳くらいの女の子みたいにかわいらしい母――。今の母と過ごせる時間は限られているのかもしれない。それでもこの楽しいときをできるだけ心の中に貯金しておきたい。
そして良江さんのおおらかさに救われつつも、昇二さんが施設に入ったら、あるいは亡くなったら、良江さんをどうするのか。経済的には大丈夫なのか――。差し迫った現実として考えなければならないところに来ている。
美紀さんの幸せを願う
美紀さんの長い物語はここで終わった。
父と母による壮絶なDV、性的虐待――それによって引き起こされた美紀さんの苦しみ、フラッシュバックで取った行動……。それらの詳細は書かなかったが、美紀さんは正直に打ち明けてくれた。息をのむほどの過酷な現実だった。思い出すのも、言葉にするのもどんなに苦しかったことだろう。よく生き延びることができたと感嘆するほどだった。
美紀さんは「この機会に勇気をもって振り返る経験をしてみたい。それで何かが変わるかもしれません」と言って、すべてを話してくれた。美紀さんは「棚卸し」と呼ぶその作業をすることで、自分を癒やそうと――いや、“癒やす”なんて軽い言葉では表せない――生き直そうとしているのかもしれない。
美紀さんにどんな言葉をかけていいのか、何度も逡巡した。
「お父さんを許さなくていい」「距離を取っていい」――カウンセリングで使うような、どんな言葉も美紀さんの経験の前には、あまりに安っぽく薄っぺらい。
美紀さんが言うように「重い十字架を背負わせた」のが神様なのなら、その神様が美紀さんと夫を出会わせてくれたことに感謝したい。そして、童女に返ったような良江さんとの平穏な日々が少しでも長く続くことを祈りたい。