Netflix『D.P.-脱走兵追跡官-』に見る、韓国「徴兵制」の実態――「命令と服従」実体験を映画研究者が語る
私も入隊して最初の1年間は、毎日のように殴られた。大きなミスをしたわけでも、命令に逆らったわけでもない。理由なんて、そもそもないのだ。何もせずとも、古参兵の気分次第で「軍紀を正す」「気合を入れる」といった正当化された理由のもと、新参兵たちは殴られる準備をしなければならなかった。
「気をつけ!」の姿勢のまま、古参兵の気が済むまで殴られ続ける――これが「命令と服従」だけで成り立っている軍隊という集団の、いまだに変わらない体質である。軍隊は儒教的慣習が最も端的に具現化したものといえるだろう。
蹴られてあばら骨を骨折したときは、私もさすがに脱走したい衝動に襲われたことを今でも覚えている。だがやはり実行には移さなかったし、できなかった。脱走の衝動よりも、その後に待ち受けていることに対する恐怖が遥かに上回っていたからだ。悲しむ両親の顔が真っ先に浮かんで胸が痛み、除隊するその日まで、ひたすら我慢するしかないと自分に言い聞かせた。
だから軍隊では「5分前と5分先を考えるな」とか「避けられないことなら楽しめ」といった言い回しが受け継がれてきているのだろう。殴られた過去もこれから殴られる未来も一切考えず、目の前のことにだけ集中しろ、というわけだ。実際、ほとんどの兵士は思考を止め、ひたすら我慢してなんとか無事に除隊している。
だが中には、気の弱い人や個人的な悩みを抱えている人もいるはずだ。そうした事情をすべて無視し、法律の名の下、一律に徴兵するのは果たして合理的といえるのか? 多感な若者一人ひとりの事情に、声にもっと耳を傾け、気を配る方法はないのか? 徴兵制度自体がこのまま維持されるのであれば、その分、軍隊もまた時代や社会の変化に合わせて変わり続ける必要があるだろう。
『D.P.-脱走兵追跡官-』において、ジュノとホヨルによる追跡は、このような疑問を投げかける過程であり、本作が発するメッセージそのものである。脱走を防ぐ根本的な解決策を見いだすことは難しく、かといって軍隊をなくすのも現実的ではない。理想的すぎるかもしれないが、「命令と服従」という軍隊の在り方を、暴力に頼るのではなく、個人としての尊重と信頼に基づいたものへと変えていくしかないのではないか。
実は韓国軍も、こうした理想を現実にしようと取り組んできた過去がある。