私は元闇金おばさん……葬儀屋の娘が『ナニワ金融道』の世界へ、「君ならやっていけそうだ」と即採用されたワケ
面接の約束を取り付け、東京池袋の雑居ビルに入居する事務所に入ると、銀行のように殺風景で感情の見えない雰囲気を感じました。見るからに高級なテーラーメイドのスーツに身を包む社長に出迎えられ、通された応接室で懸命に書いた履歴書を差し出したところ、葬儀屋の娘であることに関心を持たれて質問されます。
「葬儀屋さんの手伝いってことは、ご遺体を目にすることもあったの?」
「はい。斎場や祭壇の設営を手伝うことがあるので、お花を入れたりするときには、一緒に合掌させていただいています」
「若いのに、大したもんだなあ。こんなこと聞いて申し訳ないけど、怖くない?」
「怖くはないですけど、事故で亡くなられた方とか、亡くなってから時間がたっちゃっている場合には、違う仕事をさせてもらっています」
ご遺体の損傷が激しかったり、腐乱している場合などには、ご遺体に近づく作業がないよう父が配慮してくれていました。目にするご遺体は安らかに眠っておられる方ばかりで、怖いと思ったことはなく、むしろ物言わぬお客さんを接待している気持ちでいたほどです。天上からチェックされていると思うと気は抜けず、一つひとつのことを丁寧にやらなければ、いずれバチがあたると思い込んでいる自分もいました。
「君ならウチでやっていけそうだな。明日から来てくれるか?」
どうやら物怖じしない気持ちの強さが気に入られたようです。すぐに採用となった私は、翌日の午前8時45分に出勤することになり、その日は区役所で住民票を取って帰宅しました。
入社当初の従業員は、早口で滑舌の悪い大阪出身の社長以下、営業部には男性社員が6名在籍しており、それに創業時から社長の下で働いているという経理責任者の愛子さんと私、合計9名の所帯でした。営業部で5年以上継続して勤めているのは、空手の有段者でVシネマ役者のような風貌を有する営業部長の伊東さんだけで、そのほかの人はまだ2年足らずの在籍です。
いま思えば、従業員を定着させるためによく社員旅行を企画し、行き先を海外など魅力的な場所にすることで福利厚生の充実を図っていたのでしょう。せっかく採用されても、あまりに非情な取り立てに耐えかねて退職してしまう人は多く、取り立てる側の精神負担も相当なものだと想像できます。
当時の法定上限金利は、出資法で年利54.75%までとされていましたが、実際には10日で1割から月1割(ツキイチ)くらいの金利で貸し出されます。もちろん違法な金利ですが、表向きの書面は法に則しており、現金を手渡しで貸し付けるため証拠は残りません。手数料や調査費、出張費といった名目を駆使して、証拠が残らないように領収証を切ることなく天引きしていたのです。
この業界が一番儲かっていた時期は、昭和40年代から平成15年くらいまでの間でしょうか。日栄・商工ファンド事件が起こり、闇金融業者が社会問題となって貸金業法が改正されて以降は、さまざまな制約の下、苦しい営業を強いられました。借り手が強く保護されるようになって旨味がなくなり、商売が成り立たなくなってしまったのです。
会社が廃業した現在、このような形で過去を振り返る機会をいただいたので、懺悔の意味合いも込めて、次回からは当時のエピソードをお話ししていきたいと思います。
※本記事は、事実を元に再構成しています
(著=るり子、監修=伊東ゆう)