華原朋美と夫は“共依存”なのか? 練炭自殺ほのめかす夫に「私が看取ってあげる」……“修羅場”告白に見るいびつな夫婦関係
映画やドラマばりの修羅場だが、この話から、私が連想したのは「共依存」という言葉だった。SNSでは共依存は「お互いに愛し合っていること」というような好意的な意味で認識されていることもあるようだが、精神科医・斉藤学氏の『家族依存症』(新潮社)によると、「共依存とは他人に対するコントロールの欲求で、他人に頼られていないと不安になる人と、人に頼ることで、その人をコントロールしようとする人との間に成立するような依存、被依存の関係」といった定義している。
また同書は、このような人間関係を放置すると「『憎みながら離れられない』とか『軽蔑しながら、いないとさみしい』といった凄惨な愛憎劇」が起きることを指摘。第三者は、共依存の関係に対し、「そんなに嫌なら、離れればいいのに」と思うかもしれないが、当人同士は「離れたいのに、離れられない」から苦しんでいるとも言える。
そもそも「共依存」は、アルコールなどの依存症の現場から生まれた言葉だ。夫がアルコール依存症になったとする。妻はかいがいしく世話を焼き、夫が酒を飲まないように、また会社など世間にバレないように心を砕くだろう。フィクションの世界では、このような妻の献身に心を打たれた夫が改心し、依存症からの脱却を決心するというパターンが多いが、現実世界では、妻があれこれ世話を焼いているうちは、夫は安心してアルコールに溺れることができるため、回復しようという意志がそがれてしまうケースが目立つようだ。
また、こんな話もある。臨床心理士・信田さよ子氏の著作『共依存 苦しいけれど離れられない』(朝日新聞出版)によると、依存症をめぐる共依存の関係では、たびたび「ふりまわし」と言われる現象が起きるという。その名の通り、アルコール依存症の当事者が「もう死んでやる」などといって、妻など周囲を“ふりまわす”ことを指す。
死ぬことで、依存症当事者が苦しみから逃れたい、もしくは妻を自身のケアから解放してやりたいという優しさにも思えるが、信田氏はむしろ反対だと書いている。「このまま放っておけないと(妻に)思わせることで、傍らにいる妻からなんらかのケアを引き出そうとしている」「『妻に見捨てられたら自分は生きていけない』という究極の依存」「死ぬかもしれないこんな自分を放置しておくのか、という脅しをたくみに利用して、結果的には依存を実現する」などと指摘しているのだ。
一方、共依存においては、妻側も夫に依存している。「夫のために」と苦心しながら、実はケアを通して、夫を支配できたり、夫から必要とされることに、喜びを感じている側面も否定できない。そのため、実は夫が回復しないほうが好都合であるなど、妻側にいびつな欲望が隠れていることも少なくないそうだ。
華原の夫が何かの依存症かどうかは不明だが、私はこの2人が、こうした共依存関係にあるように思えてならない。