「推しの日本語がかわいい」「兵役に行かないで」“韓国好き”の人は無意識の加害者?
――韓国カルチャーは好き、だけど歴史を自ら学ぶまでには至らない。その垣根を越えるためには、何がきっかけになり得ると思いますか?
牛木 日本社会で生きている中で覚える違和感――前編で沖田さんがおっしゃったような、日本の学校内における、外国にルーツを持つ生徒へのまなざしなど――も、実は歴史とつながっている。その小さな違和感が歴史を学ぶきっかけになるし、きっかけ自体は日常に散らばっていると思う。「推しが反日かも」と思うこと自体は問題を含んでいますが、そう感じてしまう自らを振り返れば、勉強のきっかけにもなり得るはず。
熊野 本当に、きっかけはあふれ返るほどあると思います。例えば、日本軍「慰安婦」問題については、当初自分とは遠い話だと思っていたんですけど、この問題には民族差別・女性差別・階級差別のすべてが絡み合っている。それらは、日本でも現在進行形で起きています。特に僕は男性として、加害の当事者性を考えざるを得ない。自分の日々の女性に対する接し方、恋愛、セクシャリティ、ジェンダーの問題につながっており、日本人男性としてどう生きるかという問いにつながってくる。
歴史問題は教科書に載っている「事件」に見られがちですが、日常の中にある差別、モヤモヤとつながっている。例えば、現在問題視されている入管問題も、在日朝鮮人の強制送還の歴史などにつながってくる。政治家が歴史否定の発言をすることも多いし、天皇制も日本の加害の歴史に関わってくる。僕は歴史を学び始めて、日本で生きていて朝鮮の問題に関わらないことはない、と衝撃を受けました。
そこにどう気づくか。この本の感想をブログなどに書いてくださる人がいるんです。過去の自分の差別的な発言を思い出してハッとした、とか。一人ひとりのモヤモヤを共有することが、歴史を学ぶ入り口のひとつになる気はします。