「スピリチュアル大喜利」開幕に困惑! 元2世が語る、カルト宗教信者に「説教された思い出」
Z「ふん……。お前にそれが浮かんできたら、そうなのかもしれん。でもな、みんなの守護霊様が私に伝えてきた言葉はそれじゃない」
そうなのかもしれないのかよ。まさか大喜利の2周目がやって来るのだろうか?
Z「私がお前たちの守護霊様に教えてもらったもの、それは『礼』だ」
「礼(れ・い)」---! まさかのひらがな2文字だった。要はZさんは、ふてくされながら説教を聞く私たちを見て、「礼儀がなってない」と言いたいだけだったのだ。
「覚悟」が的外れだったことがわかり、だんだん恥ずかしくなってくる。そもそもこの会話そのものが的外れなのではあるが。
その後、Zさんの「礼儀がいかに大切か」という説教は続き、30分ほどで会議室から解放された。帰り道、3人の間で「ひらがななのかよ」という愚痴が延々と続いた。
2文字なら「礼」ではなく、「礼儀」でいいんじゃないのか、オレの守護霊。いちいちZさんに言わせるなんて、回りくどいぞ。
スピリチュアルな大人の特徴
宗教を通して、スピリチュアルな大人をたくさん見てきたからこそ、わかることがある。彼らはどんな場面でも、最終的にスピリチュアルな「いいこと」を言いたがる。
こういった宗教のコミュニティにおいては、どんな説教やスピーチにもスピリチュアルなまとめが必要なのだ。そのほうがオシャレという文化があり、それなしで話が完結してしまうのは、どこか味気ない感じがしてしまうのだろう。
というわけで、彼らの説教は、常に「普通の説教→スピリチュアル的になぜだめか→スピリチュアル的にどうしていくべきか」の構造になる。
信者にとっては理路整然とした説教だろうが、信仰心のない2世だった私には、いちいち長いのだ。マジで。
当時のことを思い出すと、「今の私だったらZさんになんと言い返すだろう」と考えてしまう。やはり真剣に教えを信じている人に、真正面から「おかしいだろ」と言うのは、腰が引ける。「スピリチュアルなものは絶対的に存在する」という大前提そのものに、理論の飛躍があるわけだが、それ以降の話は地続きというか、彼らなりには理屈が通っていたりするのだ。真剣に、キラキラしたまなざしでしゃべる人に物申して、話の腰を折ることはなかなできない。
2世信者という生き物は、大人たちの「独特な理論」に違和感を持ちつつも、どうしても気を使ってしまい何も言えずにいる、そんな悲しき人種なのである。
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