韓国現代史最大のタブー「済州島四・三事件」を描いた映画『チスル』、その複雑な背景と「チェサ」というキーワードを読み解く
1945年8月15日以降、日本による植民地支配から解放され、自由を得た喜びもつかの間、朝鮮半島は瞬く間に北緯38度線を境に南北に分けられ、「南=米軍」「北=ソ連軍」による「軍政」が開始された。同時に、南は李承晩、北は金日成がそれぞれ米ソと結びついて基盤を固め、早くも「南/北」「右/左」の対立構造が形成されていったのである。南北問わず統一国家の建設を夢見ていた多くの朝鮮人たちはもちろん猛反発したが、実際にどのような国家を造るのかという問題においては、右派による資本主義国家、左派による共産主義国家、両者ともに一歩も譲らず膠着状態に陥ってしまう。親米反共主義者の李承晩はついに“アカとは話が通じない”と南だけの単独政府樹立を主張したため、全国各地で反対運動が巻き起こり、左右は至る所で衝突、朝鮮半島はますます混乱を極めていった。
こうした状況の中、47年3月1日に済州島で予期せぬ事故が発生する。「三・一独立運動」(この歴史的重要性については『密偵』を取り上げたコラムで紹介したので参照されたい)の記念式典終了後、群衆たちの警備・監視にあたっていた騎馬警察の馬に蹴られた子どもが大けがを負ったのだ。応急処置も取らなければ謝罪のひとつもない警察の態度に対し、激怒した群衆が投石によって抗議すると、警察は暴動が起きたと勘違いして発砲、女性や子どもを含む6人もの死者が出てしまった。この事件をきっかけに済州島民たちの米軍政に対する印象は極度に悪化していったが、米軍政もまた、警察側の対応は正当防衛だったとして責任追及はせず、逆に“暴動”の参加者の割り出しに躍起になっていた。同年3月10日、島民たちが各地でストライキに突入すると、米軍政は強硬鎮圧に乗り出した。この事件が発端となり、「済州島四・三事件」につながっていく。
強硬鎮圧の際に米軍政から派遣された警察の中に、悪名高い「西北青年会」(以下、西北)という極右団体が入り込んでいた。北出身の彼らは、解放後、共産主義思想に異を唱えたことで「反動分子」と見なされ、家族を殺されるなどして南に逃げてきたのだ。“アカ”に対する憎悪に燃える彼らは李承晩にとって格好の手先となり、先頭を切って済州島に乗り込んでストライキ主導者たちの検挙と弾圧を行った。情け容赦のない彼らの暴力は民間人たちをも巻き込み、事態は悪化の一途をたどっていった。映画に登場する兵士たちの中にも北訛りの暴力的な人物が描かれているが、映画『1987 ある闘いの真実』でアカ狩りの先頭に立つ北出身のパク所長(キム・ユンソク)が、共産主義者に対する憎しみに動機づけられていたことを思い出していただくとわかりやすいだろう。こうして48年4月3日、済州島ではついに左派を中心とする武装蜂起が起こり、右派やその家族を殺害する事件が勃発した。これが「済州島四・三事件」の始まりである。
米軍政は警察や軍、西北のメンバーを増派し、さらに強硬な弾圧を繰り広げたが、平和的な解決を求める動きがまったくなかったわけではない。同じ民族同士の殺し合いはやめようと、軍の指揮官と武装隊の隊長による平和協議が進められ、一時は血を流すことなく事態が収拾される期待が高まったのだが、結局、指揮官に反感を持っていた右派による左派への襲撃で交渉が決裂、軍の指揮官は転属させられてしまった。